想像以上にりっぱな『勧進帳』であることに驚いた。こりゃ本番が楽しみだ・・・
と思いつつ、見慣れてくるとこれまたいろいろ発見してしまう。大舞台で何度も観てきた『勧進帳』。ひとりひとりの役者が、滞りなくすらすら台詞を重ねていく。その一つ一つにおそらくミスはほとんどなかっただろうが、台詞の言葉の粒立ち、相手との台詞の間、物理的な身体の間、立ち位置、後見との道具のやり取りのタイミング・・・私が観てきた大歌舞伎のそれとはやはり少しずつ違うのだ。そりゃ当然とえいば当然なのだが。
またどの役も、どの動きも、変えようのないほど洗練されたフォルムがこちらの目に焼き付いているために、ちょっとした不自然さや、衣裳のさばき方の乱れが、違和感となってもくもくと入道雲ののように湧き上がってくる。
そうなのだ。彼らとしてみれば、有名なこの演目の役をつとめながら、大歌舞伎の、大名題の、御曹司たちの舞台と、過去の立派な舞台と、当然比較されてしまうのだ。
そして比較されてまず勝ち目はない(のじゃないかと思う)。そんな大変な演目や役に取り組んでいるのだという厳しさと、それでも『勧進帳』に出るのだという喜びとがあいまっているのだろう。
そして稽古も後半ともなれば、おそらく「喜び」の方が断然強くなるのだろう。それがビシビシと伝わってくる。そして不思議に観る者の胸を打つ。本番の舞台じゃないのに。稽古なのに(いやこちらが勝手に彼らの気持ちを想像しているだけなのだが)。
しかし、このなんとも言えない、断然応援したくなる気持ち、これって観客にとって、本番の舞台を観る際の最高のスパイスとなるのじゃないだろうか。
そしてもちろん、まさに大きな”難所”を越さなくてはならない山伏一行の気持ちを実感しているのではないだろうか。
余談はこのくらいにして。
(その3へ続く)
(その1はここ)
緊張感はりつめる稽古場 |