注! この記事は2004年5月25日のものです
5月11日~6月27日まで、江戸東京博物館の第2企画展として「市川團十郎と海老蔵展」が開催されている。歌舞伎役者の大名跡中の大名跡(ビッグネーム)・市川海老蔵の襲名披露興行が現在行われている最中ゆえに、過去代々の團十郎・海老蔵にも注目が集まる。同館の収蔵品のうち市川家ゆかりの錦絵、版本など貴重な資料を今だからこそ見ておこう。
海老宝船図 八代目市川團十郎 五代目海老蔵筆
五代鳥居清満画
当代の團十郎は代々数えて十二代目となり、その前名だった海老蔵は代々十一代目。
江戸東京博物館では十一代目市川海老蔵襲名を記念して「市川團十郎と海老蔵展」を開催している。5月、6月とそれぞれ歌舞伎座での襲名披露の興行演目に合わせて展示も少しずつ変わるため、5月に観にいかれた方も、6月にもう一度行かれることをお勧めする。『助六』にちなんだ展示も増える予定だ。
さて、市川團十郎・・・荒事芸や「成田山」、歌舞伎十八番などでおなじみの役者だ。ご存知の通り当代は十二代目。さて初代から延々十一代目までの團十郎はいったいどんな人々だったのだろうか。ここでコンパクトに予習しておきたい。
初代 出身には諸説ある。成田山新勝寺にゆかりのある修験者と縁の深い家系だとか、甲州の武士だとか、成田不動の信仰者であるとか言われている。また、初代は江戸で生まれ、父の仲間であった唐犬十右衛門に海老蔵と命名されたという。初代の團十郎は14歳で初舞台を踏み、役は坂田公時。荒事芸の元祖である。
芸域が広く、教養豊かだったようで劇作もものした。また、江戸初期当時、中村座など幕府の許可を得て営業している劇場には多くの名優が登場し始め、座や家の世界のしきたりなどが厳しくなり始めるころだったという。そこに現れた新星。苦労もしたろうが、わずかの間に江戸劇壇のトップにまでこぎつけるというその事実からして、相当の力量の持ち主だったといえる。
長ーい台詞を朗々と述べる雄弁術にも長けていたようで、また不動などの神仏を思わせる演技でも江戸っ子たちを湧かせたようだ。
だが宝永元年1704年に市村座の舞台で役者の生島半六に刺されて没した。45歳。本当にドラマチックな人生なのである。
二代目 若くして劇界の孤児となった二代目は、初代の創始した荒事芸をより洗練させた形で仕上げていった。たとえば5月の『暫』が、毎年顔見世の11月に上演されるとか、正月には曾我兄弟ものが出るなどのしきたりが生まれ、その中核にあったのが二代目團十郎とされる。また江戸よりも文化的に先に発展していた上方の和事、つまりより写実な芝居の演技術も取り入れ、『鳴神』『助六』など荒事らしさに洗練を加えた傑作もものした。また、日本橋や蔵前などの大町人、そして吉原の後援を得て、江戸っ子と團十郎のつながりは一層強くなり、『助六』はその象徴的な狂言となる。
宝暦8年(1758)に71歳で没したが、ほどなく「役者の氏神」とまでたたえられる存在だった。
三代目 22歳で早世し、四代目が宝暦4年(1754)に襲名する。