「自分さえ、自分の子さえよければ……」という人が増えている!?
■子どもは座らないから半額「電車の料金設定を以前読んだことがありますが、それによると『幼児は大人の膝に座るので無料。児童は立っているのが基本なので半額」とありました。大人と同じスペースで座席を占めるのであれば大人料金を支払うべきと、疲れているときは特に感じます。シルバーシートの小さい子どもを連れた母親は、母親が座ること(子ども連れは疲れますから)を想定しているのであり、子どもを座らせるためではないと思っています」
■マナーや常識だから立つのではない
「私は子どもの頃、『立たされる派』でした。『あなたは立つ力もある。大人(特に年配)の方に席を譲るのは当たり前。大人の人に敬意を払うのは当たり前』と幼稚園の頃から聞かされていました。だから、自分がやむを得ず(足を怪我したとか病気だとか)立てない状況でない限り、我慢は当然でしたし、我慢というより人を思いやる気持ちを教え込まれてきました。
中には『いいわよ(悪いから)』と辞退する方もいらっしゃるのを見て、子どもながらに空席を見つけても座らないことを考えるようになりました。始めから空いていれば、気遣うことなく座れる人もいるのですから。
私は座らせる、座らせない云々はどうでもいいと思っています。どれだけ人のことを察せられるか、人の気持ちになってあげられるか……。それが一番だと思います。自分が優しくされたら嬉しいのなら、同じように人に優しくする術を教えるべきです。最近感じるのは『自分さえ、自分の子どもさえよければ』『見た目がよければ』『マナーや常識にさえ適っていれば』という人が多いなということです」
■物事の良し悪しを教えるために
「私が幼い頃(昭和40年代半ば)は、やはり子どもは立つということは当たり前でした。子どもは身体を鍛えなければ大きくなれないとか大人の威厳みたいなものがあり、大きくなったらいつでも座れるとかいって教えられてきたと思います。もちろん、河崎さんのおっしゃることもわからなくありません。自分の子どもが他の人に迷惑をかけてしまうのを見たくはないでしょうし、そうなることは目に見えているからそうしてしまう気持ちもわからなくはありません。実際子どものいる友人にも聞いてみましたが、やはり同じ理由でまず子どもに座らせるといっていました。
でもそれでは、子どもにどういうことが人に迷惑をかかるのか(悪いこと)という判断をつけさせる機会をなくすことにはなりませんか。子どもにはよいことと悪いことの分別を教えることは不可欠。それを教える為にはやはり多少の迷惑は仕方のないこと。経験しないと学べないことではないでしょうか。
まわりの人たちも『子どもだから』と大目にみてくれるでしょう。でもその子どもが分別ができずに大人になったら? 『いい大人がマナーを知らない』と思われるでしょう。それに本人は気がつかず、さらに迷惑がエスカレートするかもしれません。しかも注意をすれば逆ギレして、何かされるかもしれませんから、他の人は注意すらしないと思います。だからこそ早い段階で教えないといけないと思います。
その他、本当に多くのコメントが寄せられました。日本国内に限らず、海外在住の方からの厳しいご意見も寄せられました。どこまで許されるかという、寛容と不寛容の境界線は「ところ変われば」であることは確かなようです。しかし、未来の社会人である子どもたちを育てるにあたって、普遍的な意味での社会と子どものつながり、現代人の快・不快の意識、そして「大人の視線のあり方」とは何か、を考える、いい議論になったのではないかと感じています。
さて、みなさんは、子どもと社会のつき合い方について、どうお考えですか? 現代の子どもは甘やかされていますか? それとも、現代の子どもは窮屈でしょうか? そして、あなたは他人の子どもでも叱れますか?
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