うなぎ
東京近郊のおすすめうなぎ店(4ページ目)
東京近郊のおいしいうなぎのお店をご紹介します。
記事一覧
100円うな丼として登場した登亭。
ガイド記事山室 賢司天保年間創業の千住市場の川魚問屋「中市」が前身戦後、1952年(昭和27年)日本橋室町に100円うな丼として登場した登亭。そのころ、戦後の物資統制も撤廃され、養殖うなぎの生産量も増加してきた頃だ。高級お座敷料理から、うまくて安い鰻料理を、大衆に提供したいという創業者田中氏の思いからスタートしている。...続きを読む
川千家創業は安永年間、散策途中にいただく下町うな重
ガイド記事山室 賢司老舗が並ぶ帝釈天参道柴又帝釈天門前川千家。創業は1772-1780年(安永年間)帝釈天門前の茶店として登場。田沼意次が老中の時代の規制緩和で、江戸の世は景気がよく、食いだおれ、飲みだおれがよしとされた時代だ。帝釈天参道には老舗が並ぶ、寅さんのとらや、天ぷらを揚げる見せ、せんべいやなど、なんだかテーマ...続きを読む
寛政年間創業の日本橋の老舗
ガイド記事山室 賢司浮世絵が飾られた半個室でいただく昭和通り沿いに、老舗の風格が漂う小豆色の建物。創業は1800年頃(寛政年間)という麻布の野田岩、浅草のやっ古と並ぶ老舗だ。暖簾をくぐると正面の入り口はお座敷用だ。右手の御食事処と書かれた自動ドアを入る。右手一列にボックス席が並び、それぞれのボックス席は暖簾で仕切られて...続きを読む
勝海舟やジョン万次郎も食した、浅草田原町やっ古
ガイド記事山室 賢司創業は寛政年間(1789~1800年)江戸は徳川将軍第十一代家斉の時代、浅草寺の参拝客で賑わう浅草に創業。当時のグルメ誌『江戸買物独案内』(1824年)に「奴鰻」として記されている。また『江戸前大蒲焼番付』(1852年)には、西の前頭筆頭として紹介されている。他にも夏目漱石などの文学にも「奴鰻」登場...続きを読む
徳川二の丸御用商として創業、ての字西新橋本丸
ガイド記事山室 賢司徳川二の丸御用商として創業創業は1827年(文政10年)、時の将軍は第11代家斉の頃だ。徳川二の丸御用商として、芝田村町(港区芝二丁目)付近に海老屋鉄五郎が創業した。海老屋が屋号なのだが、親しい同志から「ての字」と呼ばれていたのだそうだ。当時は名前の頭文字をとって「○○字」と呼び合うのが習慣だったよ...続きを読む
都心の静かなお座敷でいただくうな重、江戸川 石ばし
ガイド記事山室 賢司空襲にも耐え、今に残る玄関の煉瓦塀地下鉄江戸川橋駅にて下車、地上に出ると神田川がある。江戸時代には神田上水として利用され、1970年頃までは神田川の中流域である早稲田から飯田橋付近を江戸川と呼んでいたそうだ。この駅名もその名残だ。このあたりは、神田川を隔てて新宿区と文京区の境目で、町名も”水道”と”...続きを読む
五代目 野田岩 麻布飯倉本店
ガイド記事山室 賢司創業は江戸末期。五代目野田岩麻布飯倉本店建物外観は細長い、まさに鰻の寝床五代目野田岩麻布飯倉本店に行く。創業は江戸末期、寛政12年(1800年)。伊能忠敬が蝦夷地を初めて測量したという年である。店の引き戸を開けると、和服姿の女将さんが迎えてくれる。入口すぐの黒光りした階段が印象的だ老舗な風合い。同じ...続きを読む
築地本願寺近く、宮川の総本山「つきじ宮川本廛」
ガイド記事山室 賢司江戸時代からの深川宮川の暖簾分け「つきじ宮川本廛」地下鉄日比谷線築地駅から、築地本願寺に背を向け銀座方面に歩く。築地三丁目の交差点を曲がった先あたりから、うなぎを焼くこうばしい香りが、周囲に広がっている。この匂いに誘われるのだ。創業は明治26年(1893年)、深川のうなぎ専門店「宮川」で修業をした初...続きを読む
ひょうたん屋 6丁目店(銀座・新橋/うなぎ)
ガイド記事山室 賢司鰻バー、夜の銀座と粋な鰻屋さん地焼き、とは「江戸焼き」とは違い「蒸し」の工程を入れない焼き方。焼きで脂を落とす地焼きの鰻が食べたい。夕方に仕事がひと段落し、地下鉄で東銀座、「ひょうたんや6丁目店」へ。開店前の17:20頃到着。店の前にはすでに3人ほど、開店を待っている。17:30開店。店内はカウンタ...続きを読む
ジャズを聴きながらひね子をいただく老舗「はし本」
ガイド記事山室 賢司創業天保6年(1835年)江戸川橋はし本神田川の中流部、早稲田付近から飯田橋周辺の川を、かつては江戸川と呼んだそうだ。その名残が駅名に残る、地下鉄有楽町線江戸川橋駅。江戸川橋駅から歩いて5分ほどのところに神田川にかかる石切橋がある。寛文年間の架橋といわれる古くからある橋なのだそうだ。その橋のたもとに...続きを読む