仏像や寺が文化財とみなされるようになった

韓国仏教の総本山、ソウルの曹渓寺。巨大な金ぴか仏像の前で、参拝者がひざまづく
そしてここではたと思うのは、仏像や寺を文化財とみなす考え方は、いったいどこから来たものなのだろうということです。わたしは、最初に述べたように仏教徒ではないので、お寺に行くのは、お参りのためというよりも、美術としての仏像や建造物を鑑賞するためです。しかし、もともと寺は祈りの場であり、仏像は美術品ではなかったはず。仏像や寺を美術品、文化財と見なすのも実は日本独特の考え方で、真の意味での仏教徒がたくさんいる国では、寺は文化財である前に、依然として祈りの場です。

韓国では、四天王像もこんなに派手(韓国、修徳寺にて)
タイやミャンマーなどでは、仏像は、金色に塗られていて、寺もずいぶん派手です。韓国でも仏像は金色に塗られて、古いものなのか新しく造ったものなのかわからないケースが多いです。日本の仏像や寺は、多くが古びた木の色をしていますが、これは仏教の基本に立ち返れば邪道です。なぜなら、お経に、悟りを開いたお釈迦様の体は金色に輝いたと書かれているからです。仏像はお釈迦様の姿を現していますから、金色なのが当たり前。仏様の世界は極彩色の美しいところとされますから、寺の建物も極彩色なのが正しいのです。

しかし、現在のわれわれは、金ぴかの仏像を見ると、「ありがたみがない」とか「安っぽい」などと感じます。美術品を見る目で仏像を見るのが一般的だからです。そのため日本では、仏像などを修復する際には、現状維持で、古びたものは古びて見えるように修復するのが普通です。日本の仏像が世界的に評価される優れた芸術品であることを教えてくれたのは、アメリカからやってきたフェノロサという人です。

●仏像が文化財と見なされるようになった事情については、拙著「奈良 寺あそび 仏像ばなし」に詳しく書きましたので、ご参照ください。
「奈良 寺あそび 仏像ばなし」

しかしやっぱり、
わたしは仏像に手を合わせる

こんな仏様に出会うと、自然に手を合わせるのは、やはり、日本人の中に流れる仏教的な宗教心の表れなのだろうか(鎌倉 浄明光寺)
わたしは仏教徒ではなく、寺に行くのは観光のため、そして文化財としての仏像や建物を鑑賞するためです。しかし、100%信仰心がないかというと、実はそうではないと思います。わたしは仏像と同じくらいに古い陶磁器類を鑑賞するのが好きですが、どれだけ美しくても、桃山時代の茶碗に向かって手を合わせたり、願いごとをしたりはしません。

一方、仏像の前に立つと、いつもそうだというわけではありませんが、何かしら心に響くものを感じたときなどに、知らず知らずのうちに手を合わせていることがあります。仏教の教義はよくわからないが、やっぱり仏様というのは、ありがたいものだなあ。そんなふうに思いながら祈っているうちに、心が少し軽くなったりもします。これは、われわれ日本人が共通して持っている感覚ではないかと思います。

人生に迷ったとき、悩みがあるとき、仏像に向かってわたしは話をします。そして、聞いていただいたことに対するお礼を言います。実際、仏様にお参りすれば、あとで必ず何かよいことが起きます。それは必ずしも目に見えるものではなく、気の持ちようだったりもするのですが、小さなことを幸せと感じる心境に至るための助けを、仏様からもらっている気がするのです。日本仏教は、長い歴史の中で変遷し、今では「葬式仏教」と呼ばれています。しかし、少なくともわたしの中には、それとは違う意味での仏教がまだ生きているようです。

韓国では、こんな形の石の塔をよく見かけます。日本の寺にはない形
●日本の仏教の性質をより深く理解するためには、外国のお寺に行ってみるのが手っ取り早いです。まずは、日本の仏教のルーツである韓国に行ってみませんか? 似ているようで意外に違う日韓の寺や仏教のあり方を、比較してみてください。

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