寺・神社/東京の寺・神社

東京の神社仏閣謎巡り 冨岡八幡宮編

下町と呼ばれる地域の中でも、もっともディープな雰囲気を残す深川。派手な神輿と祭で有名な冨岡八幡宮は、江戸時代は、相撲見物でも賑わったところです。

吉田 さらさ

執筆者:吉田 さらさ

寺・神社ガイド

深川は江戸初期の埋め立てによって生まれた町

深川不動の参道
深川散歩のはじまりは、門前仲町駅からすぐの深川不動の参道です
東京では、下町、山の手、多摩地区、それぞれに歴史や神社仏閣のあり方が違い、楽しみ方もいろいろです。今回は、下町の中でももっともディープな地域である深川の神社仏閣をご紹介しましょう。

徳川家康が江戸城に入城する以前、深川一帯は、まだ、隅田川の河口の低湿地で、とても人が住めるような状態ではありませんでした。偉大なる家康様は、ただちに江戸市街の拡張に着手して埋め立て工事が行われ、三代将軍家光のころに、深川は完全に市街地化しました。

江戸経済の発展には、火事が一役買っていた

清澄庭園
紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と言われる清澄庭園。深川散歩の折には、ぜひお立ち寄りください
江戸に火事が多かったのは、皆様ご存知の通りです。大火のたびに甚大な被害がありましたが、実は、これが、江戸経済の発展に一役買ってもいました。建物が焼ければ新しく建て直さねばならず、そのための木材が大量に必要です。つまり、災害特需ってやつですね。深川は川の畔であったため、木材置き場となり、材木を扱う豪商も生まれます。そのひとりが、かの有名な、紀伊国屋文左衛門です。

江戸は武士の街であると同時に庶民の街で、庶民階級の人々が文化の担い手でした。深川にはお金持ちの商人がたくさんいたため、文化発信の地としての神社仏閣も、大いに発展した、というわけです。ちなみに、江東区きっての名園、清澄庭園は、その紀伊國屋文左衛門の屋敷跡とされ、その後、明治の大金持ちの岩崎弥太郎さんが買い取って造成したものです。普段お金にはさほど執着のないわたしですが、こういう豪勢な庭を見ると、「はあ、やっぱ、金持ちっていいもんだな」という感想を抱いたりします。

次ページでは、深川の鎮守様、冨岡八幡宮に行きます。

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