世界遺産/世界遺産豆知識

負の遺産と世界遺産条約の挑戦

世界遺産には負の遺産と呼ばれるものがある。アウシュヴィッツや原爆ドームがその一例だが、なぜこのような物件が世界遺産に登録されたのだろう? 今回は負の遺産に焦点を当て、世界遺産条約が目指すものを追う。

長谷川 大

執筆者:長谷川 大

世界遺産ガイド

アウシュビッツ
アウシュヴィッツ-ビルケナウ。各地の収容所を合計すると、一説ではナチスによって600万人のユダヤ人と500万人の非ユダヤ人が虐殺されたといわれる。©牧哲雄

ユネスコと負の遺産

世界遺産活動を統括するユネスコ(国際連合教育科学文化機関)はふたつの世界大戦の反省から1946年に創設された国連の専門機関だ。

その名の通り、教育・科学・文化を普及させることによって戦争の悲劇を防ぐことを目的としており、その意図はユネスコ憲章前文に明記されている(以下、日本ユネスコ協会連盟公式サイトより抜粋)。
  • 戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
  • 相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
  • ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。
  • 文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。
  • 政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
  • これらの理由によって、この憲章の当事国は、すべての人に教育の充分で平等な機会が与えられ、客観的真理が拘束を受けずに探究され、且つ、思想と知識が自由に交換されるべきことを信じて、その国民の間における伝達の方法を発展させ及び増加させること並びに相互に理解し及び相互の生活を一層真実に一層完全に知るためにこの伝達の方法を用いることに一致し及び決意している。
  • その結果、当事国は、世界の諸人民の教育、科学及び文化上の関係を通じて、国際連合の設立の目的であり、且つその憲章が宣言している国際平和と人類の共通の福祉という目的を促進するために、ここに国際連合教育科学文化機関を創設する。
この憲章を反映してか、世界遺産リストにはその建築物自体に際だった価値があるわけではないが、「記憶にとどめておくべき」であるとして登録された世界遺産がある。「記憶の遺産」あるいは「負の遺産」と呼ばれる物件だ。

ところが世界遺産条約の全文を読んでも負の遺産については何も書かれていない。一般的に「アウシュヴィッツ-ビルケナウ」や「原爆ドーム」が負の遺産だといわれていて、その登録理由は戦争の記憶を残していることにあるとされている。

なぜ戦争の記憶をとどめておく必要があるのか? それが他の世界遺産に匹敵する理由は何か? 今回は負の遺産に込められた世界遺産条約の想いを伝えたい。

負の遺産って何だ?

負の遺産は世界遺産条約内で定義されたものではないため、どれが負の遺産だとハッキリといえるわけではない。

戦争の記憶をとどめるといっても、たとえばペルーのクスコやモザンビークのモザンビーク島、マレーシアのマラッカなど世界遺産に登録されている中南米やアフリカ、アジアの旧市街はいずれも侵略の記憶をとどめているし、十字軍に関連した世界遺産はいくつもあるし、古代遺跡は他民族の侵入によって滅びたものも多いから多かれ少なかれ戦争の記憶はもっているものだともいえる。

そんな中で、ほぼ戦争の記憶のみを登録理由にする世界遺産として次の3つがあげられる(■世界遺産名:登録年、登録基準)。

原爆ドーム
原爆ドーム。1945年8月6日午前8時15分に落ちたたった1発の原爆が十数万人の命を奪った。
■ゴレ島(セネガル):1978年、文化遺産(vi)
数百万人が北中南米に送られたという奴隷貿易の中継点。

■アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945](ポーランド):1979年、文化遺産(vi)
ナチスの強制収容所で最大規模のもの。100万人以上が殺害されたという説もある。

■原爆ドーム(日本):1996年、文化遺産(vi)
十数万の死者を出し、世界ではじめて実戦使用された核兵器の跡。

また、よく負の遺産にあげられる世界遺産には次のような例がある。ただし、たとえばソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群ではその登録理由に収容所はほんのわずかしか触れられていないし、ザンジバルのストーン・タウンの登録理由には奴隷貿易の記述があるが、それ以上に文化的意義が強調されている。

■ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群(ガーナ):1979年、文化遺産(vi)
ゴールド・コーストと呼ばれた西アフリカの金や奴隷の貿易拠点。

ポトシ市街
ポトシ市街。後ろの山がセロ・リコ銀山。ここで原住民の数十~数百万人が犠牲になったと言われる。
■ポトシ市街(ボリビア):1987年、文化遺産(ii)(iv)(vi)
住民を強制労働させることによって価格革命を起こすほどの銀を産出した。

■トリニダードとロス・インヘニオス渓谷(キューバ):1988年、文化遺産(iv)(v)
カリブ海におけるサトウキビ・プランテーションと奴隷貿易の拠点。

■ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群(ロシア):1992年、文化遺産(iv)
粛清の犠牲者は総計2,000万人ともいうスターリンの強制収容所のさきがけ。

■ロベン島(南アフリカ):1999年、文化遺産(iii)(vi)
大航海時代以来、ネルソン・マンデラをはじめ多数の政治犯を収容した監獄の島。

■ザンジバルのストーン・タウン(タンザニア):2000年、文化遺産(ii)(iii)(vi)
東アフリカの奴隷貿易の拠点。数十万人がインドや中南米に送られた。

■バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(アフガニスタン):2003年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi)
タリバンによって破壊された仏像で有名な遺跡群。

■クンタ・キンテ島と関連遺跡群(ガンビア):2003年、文化遺産 (iii)(vi)
ヨーロッパ、アメリカ大陸、アフリカを結ぶ三角貿易の拠点。多くの奴隷が運ばれた。

■海商都市リヴァプール(イギリス):2004年、文化遺産 (ii)(iii)(iv)
リヴァプールは造船や貿易の拠点、産業革命期の経済の中心地として大英帝国の繁栄を支えた。

■モスタル旧市街の古橋地区(ボスニア・ヘルツェゴビナ):2005年、文化遺産(vi)
1992年からの内戦で破壊されたスタリ橋周辺は、多文化の衝突の象徴であると同時に、国際協力の象徴でもある。

■アプラヴァシ・ガート(モーリシャス):2006年、文化遺産(vi)
契約を強制された50万近い「自由」労働者が奴隷の代わりに収容された。

■ル・モーンの文化的景観(モーリシャス):2008年、文化遺産 (i)(vi)
18~19世紀、奴隷たちはル・モーンの山に逃げ込み、村を作って隠れ住んだ。

■オーストラリア囚人遺跡群(オーストラリア):2010年、文化遺産 (iv)(vi)
アボリジニから奪った土地に受刑者を送り込み、植民地拡大を図ったその施設。

■ビキニ環礁(マーシャル諸島):2010年、 文化遺産 (iv)(vi)
アメリカが1946~1958年の間に67回行った核実験場。

登録基準と負の遺産

さて、上にあげた物件のうち、最初の3つの世界遺産、ゴレ島、アウシュヴィッツ-ビルケナウ、原爆ドームの登録基準はすべて文化遺産(vi)のみとなっている。この文化遺産(vi)は付随的に用いられるべき基準であるはずだから、これのみでの登録にはそれなりの意図があったと考えられる(だからといって(vi)のみが負の遺産の登録基準とも限らない。なお、文化遺産の登録基準については記事「文化遺産とは」参照。

○世界遺産登録基準(ガイド訳)
文化遺産(vi):顕著で普遍的な価値を有する出来事や現在存続する伝統で、思想・信仰・芸術作品・あるいは文学作品と直接に、または実質的に関連があるもの(本基準は他の基準と関連して適用されるべき基準と考えられている)。


奴隷貿易や大虐殺、核兵器の使用が「顕著で普遍的な価値を有する出来事」だというわけだ。たとえばアウシュヴィッツ-ビルケナウの登録理由には、この収容所が「人道に反して犯されたもっとも重要な罪を具体的に記録する例」と書かれているし、この収容所の保持が「世界平和の維持に貢献する」としている。

この裏をとれば、すばらしいものだけを伝えてもダメだ、といってるように聞こえる。すばらしいものを認め伝えていくだけでは、すばらしい社会は到来しないのだろうか?

世界遺産に対する疑問と戦争の歴史は次のページへ。
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