きっかけはLAでのフラワーデザイナーだった
コスモスの花言葉は「宇宙」と「調和」 |
フラワーアレンジメントという言葉が、まだ日本で珍しい時代、大河内さんは単身ロサンジェルスに渡り、その技術を習得しました。日本では瀟洒なマンションが建設され始めており、これからは家庭にも花を飾る時代が来ると直感。カリフォルニアを基盤に全米を行脚、「いけばな」のデモンストレーションを施して歩いたといいます。
帰国後、白金(東京)にフラワーデザインスタジオを開業。のちに日本フラワーデザイナー協会の理事を務めました。
あえなく結婚、子どもにも恵まれた大河内さんですが、3年間という約束で、ひとのやさしいバンクーバーへ移り住みます。バンクーバーは、かねてより日系移民の歴史ある街。ところが移住したばかりのころは、日本人の女性が大勢で集える会などは皆無でした。
ポットラックパーティー(一品ずつ料理を持ち寄る形式)を考案した大河内さんは、当時手に入りづらかったアンパンやキムチ、餃子などを手作りし、遠く日本を離れ頼るものもいない女性たちの憩いの場もつくったのです。
結局バンクーバーに根をはることになった彼女に、今度はジャーナリストとしての仕事が舞い込むようになってきました。多文化政策で知られるカナダのテレビ局で日本語放送の番組司会を担当することになります。
また、トロント発行の情報誌 日加タイムスのバンクーバー支局長に就任。文筆の世界でも活躍することになりました。ブリティッシュ・コロンビア州立サイモン・フレーザー大学(SFU)のバンクーバー分校にて日本語講座の講師も歴任。名実ともに、バンクーバーを代表する日本女性として、広く知れわたったのです。