中学受験

「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」は人々を本当に幸せにする?

「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」という、女性起業家の平原依文氏がテレビ番組の中で語った言葉が数カ月の時を経てネットで炎上しているようです。果たして、経験中心の履歴書にすることで人々は本当に幸せになれるのでしょうか。

宮本 毅

執筆者:宮本 毅

学習・受験ガイド

「経験中心の履歴書」にすれば、世の中は本当にうまくいくの?

突然降って湧いたようにある言葉がネットを賑わしました。「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」という、女性起業家の平原依文氏がテレビ番組の中で語った言葉が数カ月の時を経てネットで炎上しているというのです。

発言の意図としては、「若者の貧困問題」や「経済格差の拡大問題」に何とかメスを入れたいということだったようですが、識者やネットの反論としてはおおむね「経験中心にすると豊かな子ほどかえって有利になってしまう」といったものでした。
 
「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」で本当に幸せになれる?

「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」で本当に幸せになれる?


確かに“保護者の裕福度”によって、経験できることやその量は変わってくるでしょう。

ここで私事になりますが、筆者の父親は私が小学生の頃に病に倒れ、実家は相当貧乏でした。マイカーもありませんでしたし、海外旅行に連れていってもらったこともありません。裕福な家庭の友だちの中には毎年夏休みに家族でハワイに行くような子もいましたが、私はというと父親は病気療養で母親は毎日パートだったため、休みに入るとすぐに妹と二人だけで新幹線に乗って三重県の祖母の家に送られました。ハワイだグアムだ沖縄だと、裕福な友人たちが「経験」を積む中、私は京都以西に行ったことはありませんでした。
 
そんな私の夏休みはほぼ毎日のように海や川や山に遊びに出かけ、カブトムシを捕まえたりザリガニ釣りに興じたり、沢ガニ、アブラゼミ、オニヤンマ、トノサマバッタ、アマガエル、モグラに至るまで、つかまえられるものは何でも手でつかまえました。私は勉強嫌いでしたので、机にかじりついて受験勉強をしたという経験があまりありませんが、毎晩月の形と同時間の位置を日記につけ、それに海の潮の満ち引きの情報も加え、学校で習う何年も前から月の満ち欠けと潮の満ち引きの関係を経験で知っていました。海風や陸風の原理や「凪」というものの存在もすべて、教科書で習う前に得た知識でした。

私は誰がどう見ても裕福ではありませんね。しかしトンボやアマガエルを素手で捕まえることは、海外旅行をして美術館で有名彫刻家の芸術作品を鑑賞するよりも、くだらない経験だといえるのでしょうか。国内の、しかも本州内の旅行しかできなかった人間は経験弱者なのでしょうか。

あるいはよく昔の人は「家に閉じこもってないで外で遊んで来い」なんて言って子どもたちを追い出していましたが、家の中で読書をして過ごすことは本当に「貧しい経験」なのでしょうか。私は椎名誠氏の『熱風大陸』が大好きでしたが、筆者の冒険にわが身を重ね合わせ魂をはるかかなたの世界に飛翔させることもまた、素晴らしい経験だと思います。

 

「経験中心の履歴書」の問題点は裕福かどうかにあるのではない

ある方がTwitterで「そもそも、良い経験とは何なのか。それは誰がどう判断するのか」とつぶやいていましたが、まさにそれこそが重要なことだと私は考えます。何をもって「良い経験」とするのか、基準を設けることは非常に困難なことです。
 
平原依文氏の意見のどこに人々は違和感を持ったのか。「社会の境界線を溶かす」という気高い理想を抱いていたのに、みずから「偏差値中心の履歴書」と「経験中心の履歴書」の間に境界線を作ってしまった。

実は同様のことが、昨今「多様な価値観を認めるべき」と声高に唱える人たちの中に強く根付いてしまっているように感じます。たとえば「ジェンダーレス」といった考え方が広く浸透しつつありますが、そういう人たちの中には「ジェンダーレスを認めないなんておかしい」という考え方をしている人もいます。

非常にセンシティブな問題ではありますが、たとえばトランスジェンダーのアスリートの問題にしても同様です。価値観の多様化を認めるならば、ジェンダーレスの考え方を認める人がいてもいいし、認めない人がいてもいいのではないでしょうか。世の中「0か1」で考えようとするから軋轢が生まれるわけです。

 

ならば「偏差値」こそが正しい判断基準なのか?

それでは「偏差値」のほうは、公正公平な判断基準といえるのでしょうか。

偏差値とは、あるテストの平均点を50とし、成績のばらつき具合や受験者数などの情報を加味して割り出した「その人の成績が平均点から相対的にどのくらいかけ離れているか」を数値化したものです。そこには誰かの主観が入り込む余地はなく、非常に公正公平なものであるといえます。もちろん全く問題点がないというわけではありませんが、客観的データとしては非常に優れていると私は思います。

「学歴」というのはその偏差値を高める努力の先に形作られるものですから、偏差値ほどではないにせよ、公正公平な指標であることは疑いようはありません。
 
ずいぶん前の話となりますが、テレビのあるクイズ番組内で、タレント女医が肺動脈の位置を図示できなかったことがありました。その女医は外科医ではないからと言い訳をしていたのですが、身体の専門家である医師が血管の位置、しかも末梢血管ではなく中枢血管の位置すらあやふやだったという事実に驚愕しました。この人物は生業の軸足をほぼタレント業に移していたようですので大きな問題は起こらなかったのかもしれませんが、医師として信頼できるかどうかを問われたら、首をかしげざるを得ません。つまり専門知識が豊富であるということは、その人の仕事に関する信頼度に影響を与えるものであると私は思います。
 
仕事に携わるにあたっては、その仕事の専門知識が必要になるわけです。そのためには、難しい専門用語で書かれた難しい専門書を読み込む「読解力」が必要でしょう。専門的な仕組みや構造を理解するためには、当然のことながら「基礎的な学力」はどうしたって必要となります。

みなさんだって、航空工学の基礎も学んでこなかった人間が作った飛行機には乗りたくないでしょう。航空工学の基礎を理解するには、高校で物理をしっかり勉強しなければなりません。そのためには中学校で数学や理科を頑張らねばならず、さらにそれには小学校で算数をしっかり身につけておくことが必要です。つまり結局は「勉強」をしなければ、飛行機を作る仕事はできないわけです。そして会社としては信頼できるエンジニアを育てるのに、専門的な知識をしっかりと身につけている優秀な人材を採用する必要があって、学歴や大学における成績を重視するわけです。
学力は必要

「偏差値」は非常に優れた客観的データ


では「偏差値」こそが人の価値をはかるこの世で唯一無二の尺度なのかというと、それは違うでしょう。

たとえば「いいお医者さん」というのは、東大医学部を卒業していれば誰でもなれるのでしょうか。「いい医者」の定義にもよりますが、やはり知識が豊富なだけでなく、患者さんの心に寄り添う温かみであったり不安を包み込む包容力であったり、人間性が問われるのではないでしょうか。そうしたものは決して知識として暗記して身につけられるものではありません。医者になるのに専門的な知識は必要ですが、それだけでいい医者になれるわけではないのです。

 

必要なのは“二項対立”の考え方ではない

結論。私が言いたいのは、別にどっちかにする必要なんてないのでは、ということです。偏差値を突き詰めて知識を高めていく人生があってもいい。経験を重視し、いろんな人と会っていろんな場所に遊びに行くことを重視する人生があってもいい。たとえ貧乏であったとしても、人生を切り拓いていけるチャンスはたくさん転がっていると思うのです。

二項対立で物事をとらえるのは確かにわかりやすいですが、世の中は「白か黒か」だけではない。グレーな部分があってもいいし、もっといえば世界は様々な色でできているわけですから、白黒つけなくてもグレーで妥協しなくてもいいわけです。

相手を否定するのではなくお互いに認め合えれば、世の中もっと住みやすくなるのではないでしょうか。
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