中央線開通で変貌を遂げた立川
中央線特区別快速で東京駅から40分、新宿駅からは25分ほど。立川駅が立地するのは東京都の島嶼部を除いた地域の中央よりやや西側の武蔵野台地上。JR中央線、南武線、青梅線が乗入れる立川駅は多摩地区を南北に結ぶ多摩都市モノレール線の立川北駅、立川南駅に挟まれる形となっており、駅周辺は北口、南口ともに商業施設やオフィスが集積する一大繁華街だ。多摩地区では町田駅、吉祥寺駅、八王子駅が地域の中核となっているが、乗車人員数で考えるとトップは立川になる。
ところが、面白いことに江戸時代までの立川は甲州街道、五日市街道沿いの村落のひとつであり、さほど栄えていたわけではなかった。それが一気に変貌を遂げたのは明治22年に鉄道が敷設されて以来。しかも、当初、甲武鉄道(現在の中央線の前身)は甲州街道沿いの下高井戸、調布、府中から八王子を結ぶ路線を計画しており、そのルートで敷設されていれば立川は今日の発展を見ることはなかった。
ところが、その計画が地元の反対で頓挫、続いて甲州街道の北側を走る青梅街道を通るルートが計画されたが、それも頓挫。そんな八方塞がりの時期に、従前の2つの街道の中間地帯に当たるエリアに鉄道を誘致しようという運動が起こった。中でも立川を強力に押した人物がいる。
それが公立柴崎学校(現在の立川市立第一小学校)の教頭だった板谷元右衛門という人で、彼は甲武鉄道に大規模な土地の寄付を行うなどして誘致に成功。その結果、甲武鉄道は新宿~立川間に敷設され、その後、大正11年に立川飛行場が設置されたこともあり、立川には商業・工業の集積が進んだ。ちなみに板谷元右衛門の本業は料理屋の経営者で、多摩川の岸辺に鵜飼いで獲った鮎料理を提供し、大繁盛したという。
最初に改札ができた北口から発展
さて、そうした経緯を経て開業した立川駅だが、当初は北口にしか改札口はなかった。これは水利の関係からである。というのは、当初の甲武鉄道は立川が終点であったたため、そこで機関車の給水、車体の洗浄を行う必要があり、大量の水を要したのだが、地元の立川村は地域の用水の利用を拒否。そこで給水を許可した砂川村からの水を利用することとなり、その関係で北口だけに改札が作られたのだという。南口の開設は開業から40年後、南武線が開通した昭和5年である。
もうひとつ、立川駅の拠点性を高めたものがある。平成12年開業の多摩都市モノレールである。首都圏は全体として都心から郊外へ向かう東西方向の交通が優先して作られてきたため、南北方向の整備が遅れている。多摩都市モノレールは西武線沿線、JR沿線、京王線沿線、多摩ニュータウンが結ぶことで、その解消に大きく貢献。人とモノを立川に運ぶ流れとなったのである。
現在の街はそうした歴史を反映してか、北口と南口では雰囲気が異なる。それぞれ順に見て行こう。まずは北口。こちらは古くから市制、商業の中心として発展してきており、現在も再開発エリアファーレ立川には伊勢丹、高島屋などの大型商業施設、オフィスビルなどが整然と建ち並んでいる。
ただ、現在の姿になったのは昭和52年に立川基地が日本に全面返還されて以降。ご存じのように立川には昭和20年以降、アメリカ軍により立川飛行場が接収され、立川基地に。基地の町となっていた。その当時は北口側は駐留軍向け、南口側は日本人向けと飲食店なども含め、街の様相が違っていたという。
日本に全面返還された後の敷地は西、中央、東の3つに分けられ、開発が進めらてきた。西部分は都内最大規模を誇る国営昭和記念公園、中央部分は立川広域防災基地、そして、東部分は立川市役所などの行政施設や民間のオフィスや商業施設など。元々が非常に広いエリアだったこともあり、各区画は非常に大きく、街区はどこも広々としている。
たとえば、昭和記念公園は立川市、昭島市にまたがる180ha、東京ドーム約40個分の広大な公園で、花火大会やバーベキュー、水遊びにスポーツなど、公園で楽しめることのほぼすべてが楽しめる。地域に住む人のみならず、広い地域から遊びに来る人が多く、イベント時などには駐車場や周辺駅は大混雑になるほどだ。
昭和記念公園に隣接する立川広域防災基地は南関東直下地震、首都直下地震など大規模災害発生時に広域的対応を行う緊急拠点。ここには立川飛行場と内閣府立川災害対策本部予備施設を中心に、自衛隊、東京消防庁、警視庁、医療機関などの施設が集められており、内閣総理大臣を本部長とする緊急災害対策本部が設置可能な重要な基地となっている。公園隣接の国立病院機構災害医療センターは、災害派遣医療チーム(DMAT)の研修を行う災害拠点病院の拠点で、東日本大震災時には全国のDMATの総司令部として機能した。
昭和63年制定の多極分散型国土形成促進法で立川は業務核都市とされているが、東部分はその実現のために使われている。旧文部省、旧自治省の5つの研究・研修機関が立地、東京地裁立川支部なども八王子から移転するなど複数の国の機関が点在しているのだ。加えて平成22年には立川市役所も移転。広い、並木のある通り沿いに大型の建物が点在する、駅前とは異なる風景の一画だ。
整然とした北口に比べ、雑然とした南口
続いて南口側。こちらにも大型店はあるものの、北口側ほど街並みは整然とはしておらず、場所によってはいささか猥雑な雰囲気。特にJRAのあるエリアには風俗店なども集まっており、昼間から競馬中継が聞こえる。今は面影すら残っていないが、南口から少し離れたエリアにはかつて錦町楽天地、羽衣新天地と呼ばれた遊廓もあった。ちなみにこれらの遊廓は江東区の洲崎遊郭から移転してきたもので、洲崎は文京区の根津遊廓の移転先。根津、洲崎、そして立川と遊廓も移動するものだったわけだ。
ちなみに立川にはもうひとつ、赤線街と呼ばれたエリアもあり、それが現在シネマ通りと呼ばれる、北口側、立川通りから少し入った場所だ。今はところどころに飲食店はあるものの、静かな住宅街となっており、ほとんど面影を見ることはできない。もうひとつ、ちなみに現在のシネマ通りには映画館はないが、往時は当然映画館があった。というより、最盛期の立川には10館もの映画館があったそうである。
今後の期待はモノレール沿線の開発
南北それぞれに発展を遂げてきた立川駅周辺だが、今後の期待は北口側のモノレール沿線である。平成26年にIKEA立川、翌27年にららぽーと立川立飛と相次いで大型店が開業、人の流れが変わってきているのだ。特にIKEAは都内では最初の店舗でもあり、集客力が高いと言われる。2店はさほど遠くない場所に立地しており、地域の利便性アップに伴い、周辺では300戸を超す大規模マンションの建設も始まっている。
現状、2店が立地する高松駅、立飛駅間はトラックターミナルなどが広がり、住宅街としてはイメージしにくいものがあるが、今後、他にも計画が出てくれば沿線全体が変わっていく可能性もあるだろう。
また、多摩モノレールについては延伸の期待もある。平成28年4月に国土交通省の有識者会議「交通政策審議会」の小委員会が公表した2030年までの首都圏の鉄道網構想の答申案の中には都内8路線のひとつとして、多摩モノレールの延伸も含まれているのである。具体的な候補としては上北台―箱根ヶ崎、多摩センター―町田、多摩センター―八王子の3つのルートが挙げられており、現時点では延伸そのものも含め、未知数。ただ、いずれのルートも地域の利便性アップに貢献することは間違いない。今後の動向に期待したい。
分譲マンションは4000万円~が目安
最後に住宅事情を見ておこう。まず、分譲物件だが、全体としては北口側はどちらかと言えばマンションが多く、南口側の、特にモノレールの立川南駅以遠は一戸建てが中心となっている。また、バス便を利用すると周辺の国立市、国分寺市その他も範囲となる。
現在モノレール沿線で建設が進んでいる物件は70平米で4000万円前後が目安というところだろうか。75平米が中心だが、90平米超など広い住戸もあり、これは立川全般に言えること。広い物件も探せるのだ。中古になると駅から徒歩10分圏で65~70平米で3000万円台後半から4000万円前後というところ。駅徒歩圏でまとまった敷地はだんだん少なくなっており、今後はモノレール沿線、バス便利用物件が中心になってくるだろう。
すでに住宅は完売してしまったが、駅北口西地区の再開発も話題になったところ。ここはかつて地元資本の第一デパートがあった場所で、現在は地上32階のタワーが建設中。立川ではこれまで多摩都市モノレールの西側の開発が遅れていた感があったが、これにより西側エリアが変化し始めるかもしれない。
一戸建ては徒歩20分圏で敷地の広さなどによって差が出るものの、4000~5000万円ほど。中古になっても極端に高い物件は少なく、比較的価格幅は小さい。
賃貸はマンションでワンルームが6万円内外、2DKで7万円台半ばから、3DKで9万円~といったところ。アパートになるとぐっと安くなり、周辺の国立駅、日野駅よりも安くなることがあるので、手頃に探したいのであればアパートを狙うのが手だろう。
全体に平坦な場所でもあり、自転車利用も便利。分譲、賃貸ともに駅から離れた物件が多いものの、きれいな街並みを眺めながらのサイクリングやウォーキングであれば、時間はさほど気にならないはず。開放的な暮らしを望むなら検討しても良い街だろうと思う。