男子御三家には最高のキャリア教育がある

何故、男子御三家を目指すのか?

何故、男子御三家を目指すのか?

今年も中学受験が終わった。関東で中学受験の最高峰と言えば「男子御三家」が挙げられる。もともとは東大に多数の合格者を出すトップ3という意味だったが、今となっては合格実績に関係なく、「別格の私学」として開成、麻布、武蔵の3校を表す固有名詞のようになっている。何が別格なのか?

ほかの学校にはない特別なカリキュラムをもっているわけではない。先駆的な教育プログラムを実践しているわけでもない。ほかの学校とどこが違うのか、ちょっと眺めただけではほとんどわからない。

それでもこの3校が別格の凄みを感じさせるのは、通常の授業すなわち9教科の指導の中に、人生をたくましく生きるために必要なすべての要素を自然に盛り込んでいるからではないかと私は思う。

雑誌や新聞の取材で、「優れたキャリア教育をしている学校はどこか」とか「英語教育が優れているのはどの学校か」とか「グローバル教育に力を入れている学校はどこか」などと聞かれることがある。それら特定の目的に特化した先駆的な教育プログラムを実践している学校を教えてほしいのだろう。

しかし私は「たくさんあるが、あえて数校に絞ると言うならば、男子御三家」と答えることにしている。それでは少々意地悪だと思うので、「なぜならば、特別な教育プログラムをもうけなくても、通常の教科の中に、あるいは学校文化の中に、それらがすでに自然に溶け込んでいるからです」と説明を付け加える。

特別にパッケージ化されたキャリア教育や人格教育がなくても、どこの学校でも同じように教えている9教科の中に、それらの要素を自然に取り込んでいるのである。学校で学んだものを自分なりに組み合わせれば、たいていの問題には対処できるはずだという自信を身につけて生徒たちは巣立つ。

9教科をまさに「リベラル・アーツ(古代から西洋に伝わる自由七科)」の延長として教えている。これこそ最高のキャリア教育であり、全人教育であり、「生きる力」を育む教育であると私は思うのだ。

 「スキル」ではなく「生きる力」を育む

各教科の担当教員が、単に教科書に書かれていることを教えるのではなく、単に大学受験のためのテクニックを教えるのでもなく、その教科の奥にある思想や、その教科の視点から世の中を見る方法までを伝える。

たとえばこの3校においては、昨今大学入試で配点が少なくなっている幾何や漢文もしっかりやる。幾何は、古代ギリシャの時代から、宇宙の真理を見いだすために発展した学問。漢文はわれわれ東洋人の思想の源流をたどる学問だ。

最近私は、「学校で教えてほしかった9つのこと」という記事をインターネット上で目にした。税金の申告の方法、社内政治を乗り切るスキル、クレジットカード会社からの信用力を高める方法……などが並ぶ。たしかに実社会において役に立つこと。しかしどれも「自分で考えろ」と言いたくなるものばかりだった。

学校で教えてもらうことは、人生の中で必要なことのごく一部でしかない。しかしそれらを組み合わせて応用すれば大抵のことには対処できる。あれもこれもパッケージ化して学校で教えろというのは、応用力のない人の言うセリフではないだろうか。

同様に、英会話やIT知識、プレゼンテーション能力なども「生きるためのスキル」に過ぎない。「これからの時代を生きるには、このスキルとこのスキルが必要になるからやっておきなさい」などと言って、これらのスキルを子供たちに与えることは、スマホにアプリをインストールするようなもの。新しいスキルが必要になるたびに、インストールしてあげなければいけない。

一方、「これからの時代を生きるにはどんな力が必要か、それはどうやったら手に入れることができるのか」を自分で考え、実行できる力こそ、本当の意味での「生きる力」。自律的に成長する能力と言い換えてもいい。男子御三家では、6年間をかけて、それこそを生徒たちに伝えようとしているのだ。

 「新しい学力観」は「当たり前の学力観」

昨今、教科の枠にとらわれるのは古い教育で、これからは教科の枠を超えたコンピテンシー(能力)ベースの教育が大事だという論調が優勢だ。教科を教えるのではなく、思考力や創造力、分析力、判断力、表現力、コミュニケーション力などの「能力」を鍛える教育を行うほうが実践的だというのである。

しかしいい学校ほど、教科を基本としながら縦横無尽に教科の枠を超え、その中で生徒たちが自らコンピテンシーを涵養する方法を何十年も前から実践している。生徒たちが能動的に学ぶ「アクティブ・ラーニング」についても同様だ。

私が開成・麻布・武蔵の教育をつぶさに見て感じることはまず、現在「新しい学力観」と呼ばれている概念のほとんどは、これらの学校おいては、何十年も前から「当たり前の学力観」であるということ。そして、それを伸ばすために、従来型の教科指導を否定する必要などまったくなく、むしろ「従来の教科指導」といわゆる「新しい学力観」は連続的なものであるべきということだ。

開成の柳沢幸雄校長は、「開成という学校が創立以来目指している頂は変わりません。進取の気性があって、自由であって、質実剛健である若者を育てることです。しかし、時代によって頂に至るルートは変えなければならないでしょう」と言う。

麻布の平秀明校長は「アクティブ・ラーニング? 麻布の教室では授業中に立ち歩く生徒がたくさんいて、昔からアクティブですけど」とうそぶく。

武蔵の梶取弘昌校長は、「教育としての動的平衡を目指す」と表現する。「動的平衡」は、生物学者・福岡伸一氏の「生命とは動的平衡にある流れである」という言葉からの引用だ。細胞がすべて入れ替わっても生命体そのものは変わらないという意味。

3校長のこの表現の違いが、くしくも3校のハビトゥス(特定の集団に特有の行動・知覚・判断の様式を生み出す諸要因の集合)の違いを見事に表しているように私には感じられる。

「時代が変わったのだから、教育も変わらなければいけない」は一見正論だが、取り扱いに注意が必要だ。たしかに時代は変わっているのだが、人間の本質はそれほどに変わらない。人間の本質が変わらない限り、教育の本質も変えてはいけない。

男子御三家をはじめとする名門校の教育は、そのことを私たちに教えてくれているのではないだろうか。


関連書籍

男子御三家 なぜ一流が育つのか
(おおたとしまさ著、中央公論新社、税別800円)
天才・秀才・奇才? 名門校の中でも伝統と実績で群を抜く開成、麻布、武蔵に集う精鋭たちの実態。才能を開花させる仕組みに迫る。


※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。