「笑顔でいられる」ミュージカルに辿り着くまで
『ナイン』写真提供:東宝演劇部
「中学3年の頃、ハワイでサラ・ヴォーンのディナー・ショーを観たことです。もちろん中学生だからディナーショーには入れない年齢でしたが、ちょうど一緒に来ていた弟が熱を出しまして、ディナーショー会場に行って「何番の席にいる両親に会いたいから」と言って中に入れていただいたんです。そうしたらサラがスイングしながら歌っていて、「かっこいい、私ジャズ歌手になる!」と思ってしまったんですね。
でも、母が「まずは歌の基本をやったほうがいいんじゃないか」ということで声楽をやることにしまして、ちょうどアメリカ留学中だったので自分の歌を吹き込んだカセットを送ったらジュリアード(音楽学院)に入れまして。さらに「来季から(レナード・)バーンスタインが教えるらしいよ、ということでボストンのコンセルバトリーにも編入しまして、そこまではただただ楽しく声楽を勉強していました。
その後帰国し音楽大学に入ってイタリア留学をしている時に、挫折しまして。叔父がロンドンの大使館に勤務していましたので、落ち込んでいることを話したら「じゃあ、ミュージカルでも見に来ないか?」といって『マイ・フェア・レディ』に連れていってくれました。それまで、オペラではしかめっ面で厳格に音楽を追究していて、どうも自分には向いていないのではないかと思っていたので、ミュージカルではみんなニコニコして歌っていて、衝撃を受けました。それに、父からは子供の時から「公美ちゃんはね、笑顔がいいんだよね。笑顔でいたら一生幸せになれるから」と言われて育っていまして、それは遠回しに「お前は美人じゃないからそのぶん、笑顔を大切にしなさい」という意味だったのだと思うけど(笑)、その舞台を観たことで「笑顔で歌えるものを選ぼう」と思ったんです。
日本に帰って、当時いた二期会の友人たちに「ミュージカルをやりたいの」といったら「踊れないと話にならないし、日本には大柄なミュージカル俳優、いないよ」と言われましたが、ちょうど、とあるミュージカルのオーディションのチャンスが巡ってきたんです。オーディションでは「これできる?」っと、バック転ができるか聞かれて、やってみせたらすぐにスコアを渡されました。「これ……どういう意味でしょうか」と尋ねたら「君、オーディションに来たんでしょう?『ナイン』というミュージカルだよ」って。その場で合格、でした。声楽をやっていたことで音域があるし、踊りに関してはディスコ通いが昂じて(笑)リズムには乗れていたのが評価していただけたようなのです。
それがミュージカルのスタートでした。声楽とミュージカルでは歌唱法も違いますので、そのための勉強もしました。オペラでは喉に負担のかからないよう、地声を使わずに声を出すのですが、今は亡き、東宝演劇部の佐藤勉さんという大プロデューサーが、「へびはにょろにょろみにょろにょろ」などなど、早口言葉と地声で話す声の訓練をしてくださって、後にも先にも指導をしてくださったのは、そのかたの55年の演劇の中で、私だけだったそうです。それに始まってずっと東宝に育てていただいて、初出演から31年後の14年に、『天使に~』で帝劇の舞台のセンターに立たせていただくことができて、本当に「一夜にしてならずだったなあ」と思います」
――オペラの世界しかご存じでなかった森さんにみんなが特訓……というのは、森さんが当時、ダイヤの原石でいらっしゃったからでしょうね。
「みんなに磨いていただいたんですよね。いろんな角度から少しずつ、30年間。本当に有難い、その一言に尽きます」
*次頁では以降の活躍、そして森さんが現場で常に心掛けていること、今後の抱負を伺いました。