別作品のナンバーを歌った初オーディション、その結果は?
『メリリー・ウィー・ロール・アロング~それでも僕らは進んで行く』撮影:渡部孝弘 写真提供:ホリプロ
「そうなんです、英語にするとthe flower、“花”でして、父が1920年代にアメリカに移民したフランス系カナダ人の血筋なんです。日本の戸籍上も「宮澤エマ」なので芸能界に入って“ラフルアーさん”と呼ばれて新鮮だったんですけど、最近、“ラフルアー”をとることにしたんです」
――米国の大学では宗教を専攻されたそうですね。
「私は(日本で)インターナショナル・スクールに通っていまして、14歳の時に“9・11”が起こりました。学校にはもちろんイスラム教の方もいたけれど理解しえないこともあって、世界情勢の問題を紐解くとそこには歴史だったり、文化の違い、そして宗教というものがある。アメリカの大学では入学後、はじめの1、2年でいろいろな科目をとっていくなかで専攻を決めるシステムで、国際関係や歴史も考えましたが、社会学の勉強になると思って、宗教を学ぼうと決めました。今になって、ミュージカルに出演しているとだいたいの作品に宗教が絡んでいるので、学んでおいて良かったなと思います」
『bare』撮影:森弘克彦
「小学生の頃から憧れていて、高校でもミュージカルをやったりしていました。踊りはへたくそだったけれど、好きの一心で『ウェストサイド物語』でジェット団に絡んでいる女の子のエニバディズを演じたりしていました。
18歳の時に一度歌手デビューのお話をいただいたのですが、結局大学を選んで、在学中に別のものを見つけたら舞台や歌に対する私の気持ちはそこまでだと考えようと思ってたけど、やっぱりやりたいと思って日本に戻ってきたんです。でも日本の芸能界って12、13歳くらいで入る方が多くて、私はもう22歳だったので、それから歌手というのは難しいだろうということで、タレントとしての活動を始めました。そうしたら、たまたま高校時代に知っていただく機会があった宮本亜門さんから“ミュージカルのオーディションを受けませんか”というお話をいただきまして。『スウィーニー・トッド』の高音のナンバーを一生懸命覚えて臨みました。
そうしたら“エマちゃん、ふだんはこういう歌は歌ってないんでしょ”と言われて、“どちらかというとブルースやソウル、ジャズかな”“そういうの歌ってみて”ということで『ウィズ』のナンバーを歌ったら、“いいねいいね、じゃあまた”。『スウィーニー』のオーディションなのに違う曲を歌ったってことは、ダメだったんだなあと思って落ち込んで帰ったのですが、亜門さんは私の中に変化願望があると見てくださったらしくて、1か月ほどして“こういう作品あるんだけどやってみないか”とお声をかけてくださったのが『メリリー・ウィー・ロール・アロング』だったんです」
――主人公3人組の一人で、それこそ“どすこい”な存在感と歌唱のメアリー役、強烈なデビューでした。
「そうですね(笑)。あの時は40代から20代へと若返ってゆく構成で、肉布団も含めてたくさん重ね着をしていて、それを脱いでゆくことで若返ってきれいになるということだったので、誇張して演じてもよかったんです。
今振り返ると、当時は右も左もわからない中で、日本語でお芝居するのは小学生の時以来でもあり、大変でしたね。亜門さんは特に女優さんに厳しくて、私も高橋愛ちゃんもICONIQさんも、“僕の求めてるのはそういうことじゃない”と何度も言われました。何を求められているのかなかなか掴めないでいたら、ある時亜門さんに“ベット・ミドラーなんだよ”と言われて、『ジプシー』のDVDなどを何度も観たんですよ。そうしたら初日が開いて二日目に“もうこれ以上ベット・ミドラーにならないでいいよ”と言われて、“やったー!”と思いました。音楽も素晴らしかったけど、脚本がしっかりした作品ができるのはほんとに幸せだなと思いました」
*次頁ではその後手がけたお役、そして今後の抱負を語っていただきます!