出生率に伸び悩む日本との既視感

出産子育ての過剰な「意味」

子どもを産み育てることに過剰な「意味」を背負わせられない社会が必要では?

「第2子を安心して生むには十分な社会福祉政策が必要」と訴える中国の市民の言葉には、日本の私たちにも既視感がある。「先進国病」と言われる少子化は、この日本では他の先進国と比較しても著しく急激に進行して久しい。

日本の子育て環境の中にも、ようやくの思いで一人目を産んだものの、生活コスト・教育コストの高さや働きながらの育児環境が整っていないことから、二人目をもうけることに躊躇する「第2子の壁」が高くそびえていると指摘されている。

しかし第2子、第3子の出産支援策などを打ち立てるのは、大抵は高齢率の高さと人口減にあえぐ地方自治体で、都市圏で働きながら子育てをするひとの負担感や先行きの不安を拭うものではない。

政策の転換で単純に子どもが増えるわけではないという図式は、日本にもあてはまる。社会から産めと言われるほど、戸惑いと反発が広がる。子どもが増える環境とは、どこか「子育てに大きな意味を背負わせられなくていい社会」であったほうがいい、のではないだろうか?

リアル子育て層からの「コレジャナイ感」

「育児をしている当事者からすると、いまの日本の『子育て支援』に一つも共感できないんです。上から目線で理想論を言われるような感じで、なんか政策がズレている。リアルに役立つハード&ソフト面の充実あってこその理想論ではないですか?」。日本で小さな子どもを育てる渦中にある子育て層がSNSで吐き出す言葉には、いつも「コレジャナイ」という思いが満ちているようだ。

三世代近居推進や「3年抱っこし放題」発言、第3子以降の重点支援など、「古臭く昭和的というか、『本音では専業主婦による子育てを理想とする、自分は育児経験のない人たちの発想』にしか見えない。いま現在育児をしている人のアイデアではないのが手に取るようにわかる」という。都市部の共働き家庭の感覚からは遠く乖離しているのだ。

例えば三世代近居推進には、「社会保障費削減のために、保育や介護を個人の自助努力の範囲で担わせようという意図が見え見え」との反発が強い。最終的には育児にしても介護にしても、その家の「女」に労働力を求めることになる日本の社会構造にメスが入れられない限り、結局は女が家庭外での労働と育児と介護を全て背負う結末が見えていると言う。

「3年抱っこし放題」発言にも、「とっくに否定されたはずの3歳児神話や、”母性本能”という言葉を口にする政治家の時代錯誤に、こりゃダメだとがっかりを超えて苦笑」と厳しい言葉が飛ぶ。第3子以降の重点支援に対しても、「都市部の働く女性にとっては、第3子どころか第1子を持てるかどうかさえ悩みの種だというのに」とうんざりしているようだ。

日本の政治家は女性活躍推進と口にしながら、本当のところ、実際に日本の女性が活躍している現実的で具体的で詳細な姿、近い未来の家族の姿も描けていない。一つもわかっちゃいない。いま育児中の人たちの言葉には、そんな共通の空気が漂う。だから政治家がどれほど大声で子育て支援を叫んでも、その言葉はあらぬ方向へ空虚に響くだけで、現実に子育てをしている層からの支持も共感も応援も得られない。

そしてそれは、日本だけでなく場当たりで人口調整を繰り返し、人々の「家族」と「人生」を振り回す中国も同じことのようだ。政治のために第2子を持ちたくても持てず、結果的に失われた命や手離された子どもたち、そして必要がないからと無くされた「産む力」。中国の第2子解禁を無邪気に喜ぶひとがいないのは、そこにある。


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