『パッション』観劇レポート
緊密な美空間で紡がれる
「既成概念への挑戦」ドラマ
『パッション』撮影:谷古宇正彦
男、ジョルジオ(井上芳雄さん)。美しい恋人クララとの“訳ありの恋”に溺れていたが、赴任先で出会ったフォスカから一方的に愛され、当惑し、嫌悪する。
女、クララ(和音美桜さん)。ジョルジオとの恋に身を焦がしつつも、現実的感覚は失わず、ジョルジオの手紙からその心の微妙な変化を感じ取る。
容姿に恵まれない病弱な女、フォスカ(シルビア・グラブさん)。ジョルジオに一目惚れし、なりふり構わず彼に付きまとうことで、自分の命の最後の灯をともそうとする…。
『パッション』撮影:谷古宇正彦
きらびやかさを排した空間(美術・伊藤雅子さん)の中で展開する、3人の愛の行方。ジョルジオが「(こんなのは愛ではなく)執着だ!」と言う通り、相手の感情などお構いなしに迫るフォスカははじめ、常軌を逸した人物にしか映りません。彼女がぬっと現れる様はホラー映画的でさえあり、ジョルジオは何度となくフォスカを拒絶しますが、上官に命じられて病床のフォスカを見舞ううち、心の奥底で何かが変化し始める。そのひそやかな動揺を井上さんの一挙手一投足が描きだし、舞台はここから思わぬ方向へと転じてゆきます。
『パッション』撮影:谷古宇正彦
知らず知らずフォスカに感化され、“諸般の事情と折り合いをつける生き方”に疑問を抱くジョルジオ。彼らは最終的に一つの結末へと行き付きますが、それは決して“愛とは何か”についての“正答”を示しているわけではなく、愛に限らず、人間が抱く様々な抽象概念の固定化に対する、一つの挑戦のように見受けられます。例えば“正義”とは何か。“自由”とは何か。特に欧米では従来の価値観を揺さぶる事件が多発し、世界情勢が不穏さを増している今、今回の舞台はジョルジオの体験を通して、観る者に“既成概念”というものがいかに不確かなものであるかを痛感させるものとなっています(演出・宮田慶子さん)。
『パッション』撮影:谷古宇正彦
新国立劇場中劇場という、扇型に近い開放的な劇場空間形状にも関わらず、小劇場演劇のような緊密な空気の持続に大いに貢献したのが、出演者たちの充実の演技。ジョルジオ役の井上さんは“受け身”の主人公でありながら、終始ナチュラルにして細やかな演技でその内面の変化を克明に描きだし、最後まで力強く物語を牽引しています。
『パッション』撮影:谷古宇正彦
クララ役の和音さんはそのたたずまいと歌声に“訳あり”の恋愛をも美しく浄化するような清潔感を漂わせ、フォスカ役シルビアさんは“愛”とは自分にとってすなわち“生”であることを、作曲家ソンドハイムが激情を音に封じ込めたようなナンバー「Loving You」で命燃やすように表現。またジョルジオをフォスカに近づけ、結果的に彼の人生を変えることになる軍医役の佐山陽規さんは、淡々とした演技でこの人物を社会の冷酷さの象徴たらしめ、興味深いキャラクターとしています。
『パッション』撮影:谷古宇正彦
冒頭から折に触れ、オーケストラピットから響いてくる、ドラムの軍楽風リズム。舞台を観た後にはこの音を聞くたびに、胸のざわつきを覚えることになるかもしれません。またラストシーンの、照明をやや落とした中に浮かび上がる登場人物たちの黒いシルエット(照明・中川隆一さん)も、観る者の中に美しくも苦い余韻を、長く残すことでしょう。