『ラ・マンチャの男』観劇レポート
年月をかけて磨き上げられた
“崇高な志”の継承ドラマ
『ラ・マンチャの男』写真提供:東宝演劇部
薄闇の中、奈落から現れた男がギターを奏で始める。円形の舞台で体を起こす一人の人影。スパニッシュ・ギターの音色にオーケストラが重なり、雄壮にコミカルに、次々と変わる曲調のなかでひとり、また一人と俳優が現れ、曲終わりには罪人たちが陰鬱に蠢く“地下牢”の状景が立ち現われます。一分の隙も無い“魅せる”序曲で観客を劇世界に引き込むと、舞台には天上から降ろされる長階段から、教会侮辱の罪を着せられた詩人セルバンテス(松本幸四郎さん)と従僕(駒田一さん)が登場。罪人たちのかっこうの慰みものとなり、牢名主に作品を燃やされそうになった彼は「即興劇で申し開きをいたしましょう」と申し出、“遍歴の騎士ドン・キホーテ”として旅をする田舎郷士アロンソ・キハーナの物語を、罪人たちを巻き込みながら演じ始めます。
怪物だと信じて風車に突撃し、旅籠を城と言い張り、そこで働く女アルドンザ(霧矢大夢さん)を高貴なるドルシネア姫と崇め奉るドン・キホーテ。はた目には滑稽でしかないこの男に“なりきる”アロンソ・キハーナに、アルドンザや姪のアントニア(ラフルアー宮澤エマさん)はとまどい、アントニアの恋人カラスコ博士(宮川浩さん)は現実を見よと迫りますが、彼は“あるがままの現実に折り合いをつけ、あるべき姿のために戦わない”生き方を憎み、見果てぬ夢を見続けようとする…。
『ラ・マンチャの男』写真提供:東宝演劇部
セルバンテスがアロンソ・キハーナを演じ、そのキハーナがさらにドン・キホーテに“なりきる”という、“二重の入れ子”構造である本作。ともすれば各場面での主人公のアイデンティティ確認に追われかねない作品ですが、46年の長きにわたって役と作品を磨き続けてきた幸四郎さんは、台詞から歌への移行が身震いするほど見事な冒頭の「ラ・マンチャの男(われこそはドン・キホーテ)」から終盤、肉体は滅んでも魂は不滅であることを信じさせる「見果てぬ夢(騎士遍歴の唄)」まで、知性の人セルバンテスにしっかりと軸を置きながら、豊かな声量と柔らかな身のこなしで観客を魅了し続けます。
幸四郎さん自らが手掛ける演出においては、彼のホームグラウンドである歌舞伎のフレイバーが香るのも、本作の面白さ。例えばドン・キホーテの兜を提供する(羽目になる)床屋(祖父江進さん)はコミックリリーフとして登場、物語の緊張を和らげる役割を果たしますが、ここで彼が“壁ドン”や“アナ雪”ネタを取り入れて展開する“入れ事”は、歌舞伎を観なれた観客であれば、やはり時事ネタを使ったお遊びの許される(期待される)『助六』の通人のくだりを想起することでしょう。ドン・キホーテ、アルドンザと荒くれ男たちの立ち回りにも、歌舞伎的な調和的構図、緩やかなリズム感が見てとれ、キハーナやドン・キホーテの着替え等をアシストする(従僕扮する)サンチョの動き、居方も歌舞伎の黒子的。このあたり、豊かな表現技術を持つ古典芸能に恵まれた日本版ならではのアドバンテージと言えるかもしれません。
『ラ・マンチャの男』写真提供:東宝演劇部
日本で半世紀近い上演記録を持つ本作においては、キャストの「続投率」が高いのも特色の一つです。幸四郎さんに次ぐ「最古参」で1977年から出演し続ける上條恒彦さんは、製作発表で「幸四郎さんが、キャストチェンジをあまり好まない方なので」とその背景を語っていましたが、なるほど長年の団結に裏打ちされたカンパニーの、流れるような芝居運び、安定感は絶対的。特にドン・キホーテと(上條さん演じる牢名主が扮する)宿屋の主人の会話は痛快なまでの滑らかさです。
『ラ・マンチャの男』写真提供:東宝演劇部
そのいっぽうでは新キャストも作品に新たな風を吹き込み、アントニア役ラフルアーさんは初々しく可憐、カラスコ役宮川さんも現実の残酷さを、“鏡の騎士”のくだりで鋭利に表現しています。そして今回、大きな注目を集めた新アルドンザ役の霧矢大夢さんは、“名もなき女囚”として登場する序曲から決意が漲り、凛とした存在感。ドン・キホーテに“ドルシネア姫”と崇められるくだりでは揺れ動く心を克明に見せ、全人格を否定されるような悲劇に見舞われ、一度は絶望しながらも死の床のキハーナを励ましに訪れるシーンでは、自分の真価に目覚めた人間の強さを、全身で表現しています。セルバンテスが去った後の舞台で、(アルドンザを演じていた女囚であるところの)霧矢さんらが歌う「見果てぬ夢」は、セルバンテスからの“志”の継承の、雄弁な証。スパニッシュ・リズムの余韻とともに、帰途につく観客の体には今日を、明日を生きる勇気が沸々と湧き上がってくるミュージカルです。