元々は、「別府将棋教室」なる、見方によっては素っ気ない名前だった。
「先生、なんか名前がさえないよ」
物怖じせぬ子どもの一言から、子どもによる名付けが始まり、「将星会」とあいなった。
星のように輝きたいとの願い
将棋を通じて、星のように輝きたいとの願いがこもっているそうだ。もっとも人気アニメ「忍たま乱太郎」にショウセイという名の登場人物がいるらしく、実のところは、そちらが主な「ちなみ」なのかもしれない。いずれにしても、良い名をつけてくれたなあと素直に思う。
棋道の出発点「あ・し・か」
将星会では、教室にやってきた子ども達に最初に心構えとして説明することがある。それは「あ・し・か」だ。「あ」はあいさつ。
「し」は静かに。
「か」は勝っても喜ばない。
あしかの将棋……。
これが将星会の入り口であり、棋道の出発点なのだ。
「あいさつ」は、どの子も理解してくれる。子ども達が「そうだよね、あいさつは大切だよね」と感じているのが伝わってくる。
「静かに」も同様だ。
しかし、「勝っても喜ばない」には、首を傾ける子が多い。「どうして?」という顔をする。
勝利の喜び
世に競技の習い事はたくさん存在する。将星会の中にも「野球」「サッカー」「バスケ」「水泳」「陸上」などの教室に通っている子ども達がたくさんいる。考えていただきたい。上記の中に勝って喜びを表さぬ競技があるだろうか。
逆転ホームラン。バッターはガッツポーズ。ベンチは総出で声を上げ、ハイタッチ。
起死回生のロングシュート!興奮を隠さぬプレイヤー!オリジナルダンスが会場を沸点に持って行く。
誰も触ってさえいないテープを最初に切るランナー。その感動に自然と拳が上がる。
スポーツ観戦が大好きなガイドも、選手との一体感を体得できる瞬間だ。どれもこれも当たり前の風景である。
自分の思いを余すことなく全身で表現する。
「表現力を身につけよう」
学校でもそう言われて、子ども達は育つ。元来、表現力が不足していると言われ続けた国民性がある。パフォーマンスは、現代の子ども達が体得せねばならぬ重要な力だと言うこと。これは、たしかにその通りだと思う。だから、あしかの「か」で、子ども達はとまどう。勝っても喜ばないって、どうして?
勝っても喜ばない?
童歌「花いちもんめ」でも「勝って嬉しい」と歌い、踊る。だが将棋は違う。「勝者の喜び」が表に現れることを是としない。プロ棋士の対局など最たるものだ。どちらが勝ったのか、最後の様子だけでは観戦者にはわからない。そして以前にも書いたが、そもそも将棋は勝利が第一義に存在しない稀有な競技なのである。
競技の終了は、「負けました」という敗者の宣言によってなされる。その後に勝者が確定するのである。そして、勝者はその勝利を次の言葉で確定する。
「ありがとうございました」
相撲との共通点
実は、この喜びを表現せぬという点で共通する競技がある。相撲である。勝った横綱がガッツポーズをしたということで厳重注意をされたことさえある。そう考えると、これは日本人が培ってきた競技文化の美学とも言えるだろう。興奮を自制せねばならないのである。しかし、横綱でさえ、ままならぬ時があった。
行司も存在せず、対局者自身が審判となる将棋は、しかも元気もりもりの子ども達にとっては、さらに自制が難しいという面もありそうだ。だが、子ども達は自制するのである。将棋を学ぶ過程で、みごとに自制する力を身につけていく。では、何のために自制するのか。子ども達の「どうして?」の答えは、実は子ども達が見つけていく。
自制心の価値を自ら見つける子ども達
「やったぞ、勝ったぞ!」踊り出したい気持ちを、子ども達は心にしまう。盤をはさみ、今、負けを認めた相手の姿を見る。
「負けました」
声を絞り出す敗者。涙を流す子だって珍しくはない。
もちろん、彼らも耐えている。駒を投げ出したい悔しさ、盤をひっくり返したい無念さ、大声で叫びたい衝動にじっと耐えている。
勝利の喜びを表さぬが故に、敗者の姿がより鮮明に見えてくる。
だからこそ、
「ありがとうございました」
心の底から、そう言える。
将棋は、子ども達の知恵を育ててくれる。
創造性を高めてくれる。
集中力を身につけさせてくれる。そして……。
輝く子ども達
ガイドは、子ども達の対局をたくさん観る機会に恵まれてきた。そして、つくづく思う。最高の美しさは、子ども達の対局後の自制にあると……。
その姿こそ、星のように輝いている。
もちろん、すべての競技に星があり、輝きがある。だが、繰り返したい。表現をしない行為が、将棋が持つ独特の輝きなのだ。
どうですか、保護者の皆さん。
子ども達にこんな将棋を体験させてあげては、いかがでしょう?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。