解散に至るザ・タイガース
1970年になると日本の音楽シーンは大きな転換期を迎え、グループサウンズは流行の第一線から完全に退いた感があった。ザ・タイガースは沢田研二の個人人気を背景に例外的にトップスターの地位を保っていたが、先年からのメンバー間の不協和音は鳴りやむことがなく瞳みのるに至っては芸能界引退の意向を表明。
5月にはバンド内で解散は既定路線となっていた。
しかしタイムリミットが決まったからこそ思い切って出来ることもあるというもの。
直後にリリースされたシングル『素晴しい旅行』(1970年7月)は初めて沢田研二が作曲を担当。
『シー・シー・シー』(1968年7月)以来、実に2年ぶりのアップテンポナンバーで、従来の楽曲や歌謡曲的な売れ線とは一線を画したベースのブンブン効いたブルースロック調のアレンジは今聴いても鮮やかでかっこいい。
「どこかにいいことあるよ いつでも自由に暮したい」
鬱屈したメンバーの心の叫びを反映したかのような詞も含め、タイガースが本来志向していたロック的パッションを感じる名曲だ。
スーパーグループ PYG結成
1971年1月24日、ザ・タイガースは日本武道館での『ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート』を最後に解散。その後、2月1日から沢田研二はザ・スパイダースの井上堯之(ギター)、大野克夫(キーボード)、ザ・テンプターズの萩原健一(ボーカル)、大口広司(ドラム)
そしてザ・タイガースの岸部修三(ベース)と共に『PYG(ピッグ)』を結成し、新しい活動をスタートした。
この頃、海外のロックシーンではエリック・クラプトン、スティーヴ・ウィンウッドらによるブラインド・フェイスなど、既に人気と実績のあるミュージシャン達が集合したバンドスタイル“スーパーグループ”が注目を浴びていた。
PYGもこれをお手本にグループサウンズの人気スターや実力派ミュージシャンが結集したバンドで、既存のアイドル的イメージを脱却した、自分たち主体の本格的な創作活動を目標としていた。
フラワームーブメント、ブルースロック、ハードロック……芸能界の本道をそれ、あえて時代の文化的、音楽的最先端を追い求める若きスターたち。
彼らの取り組みはマスコミで大きくとりあげられ、活動は順風満帆にいくかのように思われた。
しかし……
3月に京都大学西部講堂で開催されたロック・フェスティバル 『第1回 MOJO WEST』でのこと。
この日はPYGにとって記念すべきデビューライブとなるはずだったのだが、フラワー・トラベリン・バンド、村八分、頭脳警察などトンガった反体制イメージのロックバンドを目当てに来ていた観客は感情的に反発。
罵声とゴミを投げつけ、ステージの進行を妨害してきたのだ。
彼らにとってPYGは渡辺プロダクションという大資本にプロデュースされた“ロックの本質に反する”鼻持ちならない商業バンドだった。
現代の感覚からすれば奇妙なアマチュアリズムだが、海外から輸入されたものを変に観念的にとらえてしまうのはいかにも日本らしい現象だと言えるだろう。
PYGのライブ活動はこのような現象に加え、ファンの派閥争いにも悩まされた。
主に沢田研二のファンと萩原健一のファンが感情的に対立し、それぞれのリードボーカル曲の最中にタンバリンを鳴らしたりおしゃべりをして妨害しあうのだ。
やることなすことケチのつく状況の中、PYGはセールス面でも興行面でも次第に低迷。
業を煮やした渡辺プロダクションの方針もあり、沢田研二は早々にソロシンガーとして再び軌道修正を余儀なくされた。
PYGの理想を受け止めてくれる音楽的土壌が当時の日本になかったことが悔やまれる。
PYGの音楽的功績
興業的には不運だったPYGだが、楽曲は非常に質の高いものを残している。『花・太陽・雨』(1971年4月)
作詞を岸部修三、作曲を井上堯之が担当したファーストシングル。
哲学的で奥行きのある詞とサウンド
やや軽いが爽やかで透明感のある沢田と萩原のボーカルとが絶妙なコントラストをなしており、当時の若者の心理的不安定さをとらえた胸キュンかつ幻想的なロッカバラードだ。
ある意味、ザ・タイガース期のアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』(1968年11月)の進化系のようにも受け取れる。
『自由に歩いて愛して』(1971年7月)
作詞を安井かずみ、作曲を井上 堯之が担当したセカンドシングル。
前作とはことなり作詞を職業作家が担当しているが、さすが安井かずみだけあってPYGの社会的位置づけをよく表現できている。
印象的なイントロ、ギターリフ、独特な疾走感の16ビート……そして沢田と萩原の競い合うようなツインボーカル。
日本のお茶の間に露出したという点では初めての本格ロックナンバー(グループサウンズ以降のロックという意味合いで)と言えるだろう。