<目次>
世界最初の切手、ペニーブラックとは
今回の記事は、世界最初の切手ペニーブラックを取り上げたいと思います。ペニーブラックは1840年5月1日にイギリスで発行された、世界で最も広く愛されている切手であり、収集家ならばぜひ一度は入手したいと思う「永遠のヒロイン」のような切手です。最も古い切手ですから、高価なものかといえば、そうでもありません。未使用だと30万円以上の高価な切手ですが、使用済は2万円強で良いものが買えますし、運がよければ数千円から入手することも可能です。そんなちょっとその気になれば手が届く感じも、ペニーブラックの魅力なのかもしれません。ペニーブラックに関する素朴な疑問
非常によく知られたペニーブラックですが、どれくらいのことをご存じでしょうか。- 「郵便切手の父」ローランド・ヒルって何をした人なの?
- ペニーブラックに、裏糊や透かしはあるの?
- ヴィクトリア女王の図案はどのように選ばれたの?
- ペニーブラックを製造した印刷会社の名前は?
- 1ペニーという額面になった理由は?
- なぜペニーブラックの消印に赤や黒があるのか?
「郵便切手の父」ローランド・ヒルとペニーブラック(イギリス・1995年)
郵便改革の波の中で
少し時代は遡りますが、小ピット(ウィリアム・ピット)という人物が1783年12月に史上最年少24歳で首相になった時から話を始めたいと思います。小ピットはフランス革命やナポレオン戦争時の首相であり、イギリス史の中でも指折りの偉大な首相とされることになるのですが、彼はまず国家の赤字財政の立て直しを図る中で、放漫経営をしていた郵政事業にも改革のメスを入れたのでした。これまで2人だった郵政長官の定員を1人にするなど、不要な地位を削減したり、貴族たちが持っていた無料郵便特権の濫用をけん制し、差し出しを1日10通までにするなどの引き締め策を行ったりしました。 小ピットの郵便改革は限定的なものに終わりましたが、その役割を後年引き受けたのが自由主義者ロバート・ウォーラスでした。彼は1832年の選挙法改正時にこれまで無議席だった地域(スコットランド・グリーノック)から国会議員となり、郵便事業の改革に乗り出しました。父親から貿易商の事業を引き継いだウォーラスは、痛切に郵便サービスの改善の必要性を感じていたようです。1835年までに10巻にわたる調査報告書(ダンカンノン委員会の報告書、「ブルー・ブック」と呼ばれる)をまとめて郵便の問題点を指摘し、1837年には100以上の郵便関係の法律を5つの新法にまとめる法整備を行いました。郵便切手の父ローランド・ヒルの登場
そうした中現れたのが、当時学校教員をしていて、のちに「郵便切手の父」と呼ばれることになるローランド・ヒルです。彼がウォーラス議員から先述の調査報告書を借りて、参考にしてまとめたのが、有名な『郵便制度の改革―その重要性と実用性』(1837年)でした。この平明に記述されたパンフレットの中で、ヒルが主張しているのは、次の3点にまとめられます。- 郵便料金を値下げし、郵便需要の増大を図ること
- 全国均一の郵便料金(距離別料金制から重量別料金制へ)とすること
- 郵便料金の前納制を行うこと
『郵便制度の改革』(現在のペーパーバック版の表紙)
大蔵省によるアイデア公募
ロバート・ウォーラス議員とローランド・ヒルの尽力もあり、「ペニー料金郵便法」は下院賛成215票・反対113票で可決しました。そしてついに1839年8月17日にヴィクトリア女王の裁下を得たことを受け、大蔵省はヒルを中心に料金を前納する原案を作成。さらにこの原案を具体化するために、大蔵省は8月23日にアイデアの公募を行いました。応募は予想を大きく超え、10月15日までに約2,600の応募がありました。ところが、原案にあった「料金収納印を押した粘着性の液(裏糊)を塗った紙片」つまり郵便切手に近いアイデアは47件のみで、そのうち4件に佳作と賞金100ポンドが贈られましたが、そのまま修正なしで採用できるものはないとの判断となりました。
チェヴァートンの案
佳作のうち注目されるのが、ベンジャミン・チェヴァートンによるものです。彼は切手図案を、例えばローマ神話のマーキュリーのようなよく知られた肖像であるべきとしました。人は顔の特徴の違いを知覚する能力を持っているため、文字や機械模様や装飾などよりも肖像画のほうがたやすく偽造品を見破ることができると考えたのです。結局、彼の着想のうち後者は、ペニ―ブラックの図案にヴィクトリア女王の肖像が使用されたというかたちで実現することになりました。ホワイティングの試作品
応募作品のうち最も完成度が高かったとされるのが、佳作に選ばれたチャールズ・フェントン・ホワイティングの試作品です。ホワイティングはロンドンのストランドにあるサマセット・ハウス(官営印刷所)で印紙の印刷に従事していた人物で、偽造防止の工夫が凝らされた二色刷りの凸版印刷の彩紋図案を製作し、色違いを含めると約100点を提出しました。その後、彼はヒルの郵便切手発行していく際にも様々な手助けを行っています。チャルマーズの試作品
選外となったうち、よく知られるのがスコットランド・ダンディーで書店を営んでいたジェームズ・チャルマーズのものです。彼は早くから郵便改革に関心を寄せ、1838年2月8日に裏糊付きの切手のアイデアを公開していましたし、大蔵省の公募では1839年10月7日の消印が押されたものを試作品として提出しています。こうした経緯から、チャルマーズの息子は後年、「父こそが切手の発明者」だと主張しましたが、類似のアイデアは18世紀からあり、今日ではほとんど顧みられることはありません。ペニーブラックの印刷発注先と原画
続いて、ペニーブラックを印刷したパーキンス・ベーコン・アンド・ペッチ社についてです。ローランド・ヒルは1839年7月頃からこの印刷会社と連絡をとっていたと言われます。同社は大蔵省の公募こそ参加しませんでしたが、1828年から凹版印刷で収入印紙を製造した実績があるため、栄えある世界最初の切手印刷でも適任と考えられたのです。 ヒルは12月初旬に同社へ切手印刷の見積もりを依頼し、12月中旬にはヴィクトリア女王自身も気に入っていた1837年の記念メダル(ウィリアム・ワィオンが彫刻)からデザインをとるなどの発注条件の調整を終えていました。いわゆるワィオンメダルの肖像の原画を描いたのは、ヘンリー・コーバルトという人物でした。コーバルトはパーキンス・ベーコン社の依頼を受けて、再度、鉛筆と水彩による下絵を描いていて、そのうちの数点が博物館に収蔵されています。郵便料金改定に間に合わなかったペニーブラック
ローランド・ヒルが目指していた全国均一制の郵便料金は、世論の強い後押しもあり、当初の予定よりも前倒しされ、1840年1月10日に半オンス1ペニーとする郵便が始まりました。しかし基本料金に相当する1ペニー切手の発行は間に合いませんでした。 まだこの時点では、チャールズ・ヒースと息子フレデリックが1月初旬に肖像の彫刻に着手したばかりであり、第1版で印刷に入ったのは、4月15日のことでした。ところが第1版は焼入れをしなかったため、版の摩耗が激しく、1週間後には修理に出され、早くも第2版が投入されました。ペニーブラックが使用開始された時点では第2版も出回っていたことが知られています。売れ行きの好調だったペニーブラック
ペニーブラックは1シート240枚の構成でした。当時のイギリスの通貨では1ポンドが20シリングに相当し、1シリングが12ペンスに相当したため、横12枚・縦20枚のシートが計算しやすかったのです。用紙は偽造防止のため、王冠のマークの透かしを入れたものが使用されました。ペニーブラックの売れ行きは好調で、発売初日の1840年5月1日はロンドン管内だけで2,500ポンド、実に60万枚が販売され、使用開始日の5月6日には約半数の郵便物に切手が貼られていたという記録があります。 ペニーブラックは1841年1月までに第11版を数え、合計6,815万8,000枚が製造されました。一方で2ペンスのペンスブルーも数日遅れて販売されましたが、こちらは需要が少なく、わずか第2版までで終わり、製造枚数もペニーブラックの1割以下に止まりました。売れなかったマルレディ封筒(郵便書簡)
ペニーブラックと同時に、郵便書簡(郵便料金を前納した官製封筒)も発売されました。王立美術院会員のウィリアム・マルレディーが大英帝国を擬人化したブリタニアが世界を一望する図柄を描いたことから、マルレディ封筒(ステーショナリー)と呼ばれ、ローランド・ヒル自身はペニーブラックよりも売れると考えていました。 ところが、封筒の売れ行きは思うように行かず、多くの在庫を抱えることとなりました。当時、郵便の大口利用者は商工業者が多かったこともあり、あまり芸術的な図案は好まれなかったのでしょう。1841年2月10日にはヴィクトリア女王の肖像の印面を付けた簡素な書簡に改められています。赤い消印から黒い消印への移行
ペニーブラックを見ていると、よく赤い消印が押されていることに気付くと思います。これは「マルタ十字印」と呼ばれる消印で1個1シリングで郵政当局に納入されました。この消印は1つ1つが手作りのため、郵便局ごとに微妙な違いがあり、専門収集家は注意深く区別しながら収集することがあります。ところがこの赤い消印は石けんをつけて水洗いすると、洗い落とせてしまうことが発覚し、切手の再利用防止の役に立たないことが判明したのです。 そこで再度消印の実験が行われ、最終的に1841年2月10日から切手を赤色にして、消印も黒色に改められることになりました。赤い切手はペニーレッドと呼ばれ、1840年12月30日から印刷が開始されています。名品ペニーブラック第11版
ところが、ペニーレッドが登場する前月のうちに1841年1月中に販売する分のペニーブラックが不足してしまう事態が起こりました。そこで急きょ、ペニーレッド用の版でペニーブラックを増刷することになったのです。これがペニーブラックの第11版です。数が少ないため、ペニーブラックの中で最も高価なものとされています。ペニーブラック第11版の使用済(1841年)
ペニー郵便の全国展開の収益は?
さて、少し話を戻します。1840年1月10日の郵便料金改定は大英断ともいうべき大幅な値下げでした。1812年の郵便料金改定で15マイルまで4ペンスとなったのが、1839年12月5日に全国均一へどこでも4ペンスとなり、さらに1840年1月10日に基本料1ペニーとなったわけです。当然ながら、郵便事業としての収益自体はかなり悪化しました。ようやく値下げ前の1839年の水準に収益が戻ったのは、1851年のことでした。 しかし単に郵便事業を収益だけで計ることはできないでしょう。特権階級に与えられていた郵便無料特権を廃止させ、かつ郵便事業の便益を広く普及させた功績は何物にも代えられないものと思われます。ヒルは実際に郵便改革の功績が認められ、1860年に「サー」の称号が与えられ、郵政次官を退官した1864年にはアルバートメダルが贈られ、最晩年の1879年にはロンドン市の名誉市民の称号を得ています。発行から175年目の節目
なお、今年2015年は世界最初の切手が発行されてから175周年という節目に当たります。175周年というのは日本人の感覚だと中途半端な気もしますが、世界的には周年行事を祝う慣習があるようで、ペニーブラック175周年の記念切手の発行を予定している国もいくつかあり、ひょっとしたらイギリスの最初期の切手に新しい光が当てられることになるかもしれません。 この記事はここで締めくくりとしますが、ここで示したペニーブラックの多くは千葉晋一さんのご厚意により掲載することができました。また記述の多くを『郵便の文化史』(星名定雄、みすず書房、1982年)に依っていることについて申し添えたいと思います。【関連記事】