ロシア語が分からない相手にロシア語で会話しますか?

ドラッカーはこのような例えを使って説明しています。自分はロシア語で会話できたとしても、相手がそれを解さなければ、ロシア語での会話ではコミュニケーションは成立しません。自分はロシア語が分かるが、相手はロシア語が分からない。ロシア語についての自分と相手との相違を意識しないといけない。だから「コミユニケーションは知覚である」と言っているのです。

「そんなことは当たり前!」、そのように思われる方がほとんどでしょう。
コミユニケーションをしている様子

ロシア語分からない相手にロシア語でコミュニケーションはしないはず

確かに、これは誰にでも理解できる例えです。しかし、経営トップが社員にメッセージを発信する。広報部門が社内報を発行する。開発部門が営業部門に依頼する。このような日常のなにげない場面においても、この言葉を意識していないことで、コミュニケーションの不成立が生じているのです。

そもそも、自分と全く同じ人間はこの世に存在しません。全く同じバックグラウンド、同じ考え方、同じ情報リテラシーを持っている人間は存在しません。そして、コミユニケーションにおいては、2人以上の人間の存在があります。だとしたら、コミュニケーションにおいては、常に相手との相違を意識しなければならないはずです。

目線の違い、保有情報の違いが意識されない

先に記した、経営トップが社員にメッセージを発信する際、どうしても経営トップ目線になってしまいます。経営トップと社員では見ている世界が大きく異なります。考えていること、問題意識も全く異なります。持っている情報、触れている情報に歴然たる相違があります。

この違いを意識して経営トップはメッセージを発信しないと、社員は理解できません。見ている世界が違うので、追い付いていけないのです。たとえ理解できたとしても、自分の身に置き換えて具体的な行動をイメージすることができないはずです。良くある「総論賛成、各論意味不明」状態に陥ってしまうのです。

この例もまた、「そりぁ、そうだろう!」と理解しやすいものかもしれません。しかし、次に記した例、広報部門が社内報を発行する場合。この事例ではどうでしょうか? 実際に多くの広報担当者が「コミュニケーションは知覚である」を全く意識せずに、社内報を発行しています。結果として、読まれない、行動に結び付かないものになっているのです。