「ロック少年」が気が付けば藝大生に
『レ・ミゼラブル』 写真提供:東宝演劇部
「そうなんです。L'Arc~en~Cielさんとか、小5くらいからはKISSにのめりこんで大好きでした。最初はビジュアルを見て”なんだろうこの人たち……“と思ったけど、音楽を聴いたら”すごくまともだ“と思ったんです(笑)。かっこいい曲だな~と思って。中学の時に東京ドームのライブを観に行ったりしていました。クイーンも好きで、先日初めてソロライブを開催したのですが、そこで”The Show Must Go On”も歌いました。イギリスのにおいがぷんぷんして、上品でありつつハードロックで、ハーモニーがすごくきれいなんですよね」
――でもご自身の声はクラシック向きだった?
「自覚は全然なかったんですけど、小さいころ、幼馴染の家族とカラオケに行ったときに、幼馴染のお母さんに”オペラ歌手になるといい“と言われたんです。え?僕はロックやりたいんだけど、と思ってて、そのことは忘れていました。それが高校に入ってバンドをやりたくて、部活の入部届を書くときに”ギター部“と書いたら、担任の先生と合唱部の顧問の先生との間で”こいつを合唱部に入れよう“という話になっていたらしく(笑)、”君は合唱部に入ったほうがいいよ”と言われたんですよ。
”え、僕ギター習いたいんですけど“と言ったら”大丈夫、合唱部でもギター弾けるようになるから“と言われて、歌はもともと好きだし、まあいいやと思って入ったんです。そうしたら1年の終わりごろ、合唱部の顧問の先生が”声楽をやらないか”と声をかけてくださって。”え?俺、オペラをやりたいんじゃないんだけど“と思ったけど”絶対藝大に入れてあげるから“と、とっても僕を買ってくれて、”そうですか、そんなに言って下さるなら、ロックをやるにしても音楽の勉強になるからいいかな”と思って声楽を始めて、藝大に行って……」
――東京藝術大学は簡単に入れるところではないと思いますが……。
「でも入れてしまいましたねえ(笑)。受験のための努力はしたかなあ……。毎朝6時に起きて8時に学校に着いて、8時半ごろHRが始まるまで発声練習をして。放課後は合唱部で練習するか練習が無ければ職員室でカギをもらって、毎日音楽室にこもって練習はしていましたね」
――ピアノは既に弾ける状況だったのですか?
「習ってはいたんですがあまり真面目にやっていなくて。でも藝大の入試のピアノは簡単だったので、その曲だけ一生懸命練習して。あと音楽理論などの学科の勉強もやっていました。藝大は実技が課題曲と自由曲で、その実技が9割、あとの1割が学科(で決まる)と聞きました。
課題曲はイタリアの古典歌曲で、「カーロ・ミオ・ベン」という曲とか「ピアチェール・ダモール」という曲でしたが、難しくて、10年経った今になってやっと良さが分るような曲ばかり。当時はわけがわからないまま歌っていました。で、それを課題曲で歌って、自由曲は好きなオペラアリアでということだったので、僕は『ドン・ジョヴァンニ』というモーツァルト作曲の女ったらしが主人公のオペラの、下僕のレポレッロが”うちの旦那はイタリアで640人、ドイツで231人、スペインでは1003人の女を抱いたんですよ”と歌う曲を歌って、受かりましたね(笑)。その時の自分の声質に合っていたのかな」
14年ファースト・ソロ・ライブでの上原さん。写真提供:Orchard
秀才揃いの中で、劣等感をバネに努力を重ねる
――当時から今までの間に、声はどんどん変化されたのでしょうか?
「どうだろう。卒業試験の時にようやく”あ、ずいぶん変わったな“という実感はありましたけれど、大学生活を送っていく日々の中では感じる余裕もないくらい、僕、劣等生だったんですよ。藝大に入るためだけの勉強しかしなかったので、入ってからが大変で。藝大だから2浪3浪している人もいるし、日本でトップと言われる音楽大学なので、高校生の音楽コンクールで1位をとった人が年度ごとにいるんですよね。1年前、2年前、3年前のコンクールで1位をとった人たちがずらりと。
みんなそういう教育を受けてきた人たちなので、お父さんもお母さんも声楽家だったりして知識も技術もある。みんなすごいんですよ。譜面を渡されて、初見でぱっと言葉を付けて歌い始めるとか。”なんでみんなできるの”とびっくりして、もういっぱいいっぱいでした。いつも自分はダメだダメだと思ってました。でも、逆にここで1位になれたらすごくない?と考えて、どうにか食らいついていきましたね」
音大でミュージカルを“初体験”
――では授業第一で、サークル活動もする暇もなく?
「やっていました(笑)。ミュージカルのサークルです。藝大だけでなく、インターカレッジみたいな感じでいくつかの大学の学生が集まってやっていました。
大学の授業にもミュージカルはあったんですよ。それを取って、こういう世界もあるんだと知って、もともとロックをやりたかったのもあって“いいなあ”と思い始めたのもあったし、そのサークルの主宰の学生に声をかけてもらって“すごくミュージカル合うと思うよ”と言ってもらって参加したんです」
――当時、藝大ではミュージカルはどう受け止められていたのですか?
「当時はやはりクラシック色の強い学校でしたから、ミュージカルに対して“ええ?”というムードはありました。でも僕らの学年にはミュージカル好きも多かったし、今はかなり、ミュージカルをやるために藝大に入る学生もいるようです。大学の文化祭では毎年3年生がオペラをやるんですが、今ではその演目がオペラではなくミュージカルだったり。
ミュージカルの授業は前期がミュージカル史で、後期になると実技。演出家の青井陽治先生や小池修一郎先生が来てくださって、実技で“もっとここはこう歌ったほうがいい”と言ってくれるというような授業でした」
――そこで引き抜かれるケースもあるのでしょうね。
「あるでしょうねえ。僕も青井先生の授業がきっかけで、お仕事をいただいたりもしました。小池先生の授業では、悪役をやってみろと言われて歌ったら、それがはまっていたらしく、先生はずっと机をたたいてくくく……と笑ってらっしゃいました(笑)。作品ですか?みんなで作ったオリジナルです。作曲科の生徒もピアノ科の生徒もいるので、せっかくなのでみんなで作ってみようということになって、それを声楽科の生徒が歌ってみて、先生が”ここはもっとこうしてみたら“と言ってくれるという授業でした」
――藝大に行ってよかったと思われますか?
「もちろんです。四六時中一流の音楽が流れているという環境が、すごくいいんですよね。個室の練習室もあるんですが、歌の人もチェロやヴァイオリンの人も入っていて、みんなうまいんですよ。すぐ隣のレッスン室に入っているのも一流の人たちばかりで、きれいな歌声や美しいヴァイオリンの音色が聴こえてきたり。そういう環境に身を置くことができて、本当に良かったなあと思います。ちょっと行くとホールがあって、そこでオーケストラが演奏し、名指揮者が振っていたり。美しい音楽が絶えず流れていて、在学していると糧になりますね」
――上原さんの体は美しい音楽でできているのですね。
「どうでしょうねえ(笑)。卒業してしまった今でも、まだ残ってるといいですね(笑)」
*次ページで『レ・ミゼラブル』でミュージカル・デビューされた経緯、上原さんのアンジョルラス観、そして今後の夢をうかがいます。