アウシュヴィッツと人間の狂気
第二収容所ビルケナウの木造収容棟。まるで家畜小屋のようなバラック。第一収容所より明らかに粗末
第一収容所アウシュヴィッツのトイレ。第二収容所のトイレは穴があるだけ ©牧哲雄
戦争は残酷だ。ましてホロコーストが残虐で人間性のかけらも感じられないなどということは、子供だってわかることだ。かつて映画『地獄の黙示録』の記者会見で、フランシス・コッポラ監督はこんなことをいった。「戦争の本当の恐ろしさは、ナパーム弾の攻撃を美しいと思わせてしまうところにある」。
第一収容所アウシュヴィッツの絞首台。ここで絞首刑を行った
戦争を裁くのは簡単だ。虐殺は残酷だというのも簡単だ。しかし、そんな反省を繰り返しても、旧ソ連で、中国で、カンボジアで、ルワンダで、いまだってスーダンで虐殺は起きているし、小規模な殺人なら世界各地で起っている。結局戦争反対なんかじゃ戦争はなくならない。そんなことは十分わかった。では、いったいどうすればいいのだろうか?
世界遺産とアウシュヴィッツとあなたと私
第一収容所アウシュヴィッツの死の壁。この石壁の前に整列した囚人たちを次々に射殺した
第二収容所ビルケナウの生死を分ける鉄条網と監視塔
「普遍」であるからには、当然全時代の全人類に共通する価値であるはずだ。世界にはいろんな文化・思想・信念・宗教があるが、そんなものをすべて超えたものでなくてはならない。
たとえば目の前で次々と人が殺されていく。それを見たら誰でも「おかしい」と思うはずなのに、戦争の中ではそれが「普通」になってしまう。ビルケナウのような美しい場所で人が惨殺されても、それが当たり前に思えてしまう。
第一収容所アウシュヴィッツの収容棟群
「普遍的価値」がもし本当にあるならば、きっとそれこそが我々を踏みとどまらせるに違いない。なぜって、それは思想や信念・宗教を超えて、全人類が共通して持つものなのだから。そして、自分が思い描く自分勝手な「正義」なんてものにではなく、人間誰もが持つもの、人間そのものを尊ぶことができるようになったとき、きっと戦争は終わるはずだ。
アウシュヴィッツは、世界遺産条約が訴える普遍的価値の本当の意味を、こうして投げかけている。アウシュヴィッツを訪れて、ぜひその意味を感じ取ってほしい。