関東大震災を逃れた博物館
郵政博物館のルーツをたどると、明治35(1902)年にできた「郵便博物館」まで遡ることができます。この年にちょうど日本から世界中へ外国郵便が差し出せるようになって25年の節目(万国郵便連合加盟25年)を迎えたことから、それを記念して開館しました。当時は博物館自体が珍しい時代だったので、大きく注目されたようです。その後、日露戦争の影響で活動は一時的に停滞しますが、明治43(1910)年5月に現在の銀座郵便局の敷地に逓信省の本庁が新築された際に博物館も移転し、さらなる発展を遂げました。
しかしその後、関東大震災が起こります。現在の銀座郵便局のあたりはかつて木挽町と呼ばれた地域で、震災の被害を受けて一面の焼け野原となってしまい、逓信省の本庁も焼失を免れませんでした。それでは郵便博物館も……と思いきや、前年の大正11(1922)年に飯田橋(麹町区富士見町)に移転し、新たに逓信博物館として運営していたため、展示品はほぼ無事だったのでした。
樋畑雪湖の活躍
郵政博物館の歴史を語る上で、樋畑雪湖(ひばたせっこ)を欠かすことはできません。樋畑雪湖は長野県松代の人で、父親譲りの画才を磨くため、上京して浮世絵や洋画などの技法を学んだ絵師でした。当初は長野県の図生として出仕するのですが、逓信省への出向を命じられて、郵便局で使う様々な用品を改良に従事することになります。その後、明治35(1902)年に郵便博物館ができると、主任として勤務。大正12(1923)年に退官するまで、郵便資料の収集を精力的に行いました。このため樋畑雪湖は「逓信博物館の創立者」と言われます。樋畑雪湖は博物館の学芸員の草分けとしての役割だけでなく、切手研究でも著作を残しています。また持ち前の画才を発揮して、「富士鹿切手」の原画を制作したほか、はがき類のデザインも数多く手がけ、退官後も長い間、記念切手の図案選定などで大きな発言力を持っていました。後年の樋畑雪湖の活躍については、作家の内藤陽介さんのブログにも詳しく紹介されています。
大手町の逓信総合博物館
戦後、飯田橋の逓信博物館は老朽化が進んだため、昭和30年代初めに大手町への移転が決まり、東京五輪の翌年にあたる昭和40(1965)年に「逓信総合博物館」(愛称ていぱーく)としてオープンしました。敷地はかつて大蔵省印刷局の施設があった場所で、関東大震災後に逓信省が仮庁舎を構えたところでもあり、切手にとって縁の深い場所でした。逓信総合博物館は、当時の郵政省だけでなく、日本電信電話公社(NTTの前身)・国際電信電話株式会社(KDDIの前身)・日本放送協会(NHK)が相乗りしてできた、情報通信の技術や歴史を総合的に展示する企業博物館でした。ところが、東京・武蔵野市にNTT技術史料館ができ、埼玉・川口市にNHKアーカイブスができると、「総合」博物館としての役割は薄れていきました。そして、郵政も独自に博物館を構えることになり、逓信総合博物館は惜しまれつつも2013年8月31日に閉館。その半年後にリニューアルオープンしたのが、「郵政博物館」なのです。
次のページでは、いよいよ郵政博物館の魅力に迫りたいと思います。