ミュージカル/ミュージカル・スペシャルインタビュー

気になる新星インタビューvol.7 神永東吾(3ページ目)

全国公演を経て目下、東京凱旋公演が上演中の『劇団四季ソング&ダンス60 感謝の花束』。ボーカルパートにキャスティングされている俳優の一人で、出演日には溌剌とした姿を見せ、「あの俳優さん、どなた?」と客席を沸かしているのがこのかた、神永東吾さんです。入団五年目、既に『ジーザス・クライスト=スーパースター』タイトルロールも演じている新進気鋭。その素顔に迫ります!*『JCS』観劇レポートを掲載しました!*

松島 まり乃

執筆者:松島 まり乃

ミュージカルガイド


激情の果ての微かな希望
『ジーザス・クライスト=スーパースター』エルサレム・バージョン観劇レポート

『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

キリスト最後の7日間を描いたロックオペラ『ジーザス・クライスト=スーパースター(以下JCS)』。本作は1969年、一枚のシングルレコード「スーパースター」から始まって、レコードアルバム、コンサート、そして舞台へと発展、世界的な社会現象となり、作詞家ティム・ライス、作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーを一躍ミュージカル界の寵児に押し上げました。

以来世界各国で繰り返し上演されている作品ですが、日本版は73年に劇団四季が初演。年月をかけて洗練された演出(浅利慶太さん)が特徴的です。歌舞伎や能など古典芸能の要素を取り入れた「ジャポネスク・バージョン」と、リアルさを追求した「エルサレム・バージョン」がありますが、今年の東京公演、それに続く全国公演では後者の「エルサレム・バージョン」の上演となります。
『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

舞台上にはパレスチナの荒野。かなりの傾斜舞台(専門用語で“八百屋舞台”) で、荒野というより丘と言ったほうがいいかもしれせん。その荒野の彼方から現れるジーザスに、圧政に苦しむ群集は救いを求め熱狂しますが、弟子のひとりユダは偶像化してゆく彼に疑問を抱き、苦悩の末、ユダヤの祭司に逮捕させてしまいます。ローマ総督ピラトの前に連れて来られたジーザスは鞭打ちの後、磔刑に。現代音楽にクラシック、チャールストンなど、様々なフレイバーを取り込んだロックオペラは90分間強、ノンストップで進行します。
『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

この物語を表現するにあたり、エルサレム・バージョンで大きな効果を挙げているのが、前述の傾斜舞台です。壁のようにも、すり鉢状にも見える乾ききった荒れ野は登場人物を取り囲み、心理的な圧力の中で彼らの“負”の側面をあぶりだすかのよう。ユダヤの群集はジーザスを殺せとピラトに詰め寄り、弟子ペテロはジーザスを「知らぬ」と見捨て、ユダも自責の念の中で自死を選びます。

圧巻は、裁判からジーザスが十字架にかけられるまでのくだり。群衆たちは気がふれたかのように傾斜舞台を駆け巡り、転び、石を投げつけながらジーザスを呪い、嘲笑。ピラトはジーザスを助けようとするもののその心が読めず、いらだちのなかで死を宣告する。そしてジーザスは人間たちの罪深さ愚かしさを背負って死に赴くことを決意し沈黙を貫く……。それぞれの激情がほとばしり、特に東京公演では自由劇場という、役者と目が合ってしまうような距離感の劇場での上演ということもあって、まるで「すぐそこで実際に起こっている」かのような生々しさでドラマが展開します。(白い大八車を使ったミニマルな装置、演じ手の”素”を消した歌舞伎風の白塗り化粧等を通して、舞台上のドラマを客観的に見せるジャポネスク・バージョンとは対照的。次回のジャポネスク・バージョン上演の折には対比してご覧になるのも一興です。) 
『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

今回が3演目とあってより人物造形が明確になった神永東吾さんのジーザスは、体にぴんと芯の通った姿こそ歴代のジーザスを踏襲していますが、カラーとしては「力強い」「超然とした」カリスマというより、「内省的な求道者」。このジーザスに対して序盤、佐久間仁さんが演じる弟子シモンがやはり芯の通った“居方”で正義感を前面に出し、「狂信者シモン」を歌うことで、個人の生き方を説くジーザスと彼に政治的な運動を求める民衆の思いがすれ違い、亀裂が広がってゆく様が鮮明になっています。

作者ティム・ライスが「この人の視点で物語を書こうと思ったのがJCSの出発点だった」と言う重要人物、ユダを演じるのは芝清道さん。シモン役を経てユダ、そして過去にはジーザスも演じてきた豊かな経験が生き、通常、この役ではシャウト系の歌唱が印象に残るところですが、今回は無言の立ち姿にはっとさせられます。ジーザスを裏切るまでの逡巡のナンバーを傾斜舞台の最上部で板付き(暗転し次の場面となるまでの間に定位置についていること)にて歌うのですが、その歌い始めまでの立ち姿にユダの千々に乱れる思いが滲む。「表現力」とはこういうものかと痛感させられます。
『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健

ピラトの村俊英さん、カヤパの高井治さんらも回数を重ねて手堅い演技を見せていますが、もうお一方、この演目にはなくてはならない(?!)存在がヘロデ王役、下村尊則さん。コミカルにジーザスを詮議する「ヘロデ王の歌」を歌うにあたり、ジャポネスク・バージョンでは明確に歌舞伎舞踊の所作を取り入れ、“傾(かぶ)いた”ヘロデを演じていますが、リアルさが特色のエルサレム・バージョンでも一貫して流れるような段取りで動き、歌舞伎舞踊のエッセンスを感じさせます。これが、物語の中で唯一享楽的に生きるヘロデの「異次元」の存在感をみごとに強調。20年以上も演じるなかで凄みすら加わってきた下村ヘロデ、これからも演じ続けていただきたい「当たり役」です。

ジャポネスクとエルサレム・バージョンにはビジュアル、音楽アレンジなど様々な違いがありますが、登場人物の動きや位置取りもあちこちが異なります。最も顕著な違いの一つが、幕切れの演出。ジーザスが息絶えた後、ジャポネスク版では彼が磔になった十字架だけが現れますが、エルサレム・バージョンでは星空のもと、十字架の下にマグダラのマリア、シモン、ペテロら数名が集い、見上げます。前者の演出はジーザスの孤独の強調、後者は以後にジーザスが永遠に崇められ、語り継がれることの予兆でしょうか。今回はそれに加え、他者と思いを共有することができず苦悩しながら逝ったジーザスの魂を人々が慰め、コミュニケーションが成就した瞬間のようにも見えます。またたく星の光のように、提示される微かな希望。美しい管弦楽の音色の余韻の中で、観る人ごとに様々な感慨を得られる作品なのかもしれません。


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