激情の果ての微かな希望
『ジーザス・クライスト=スーパースター』エルサレム・バージョン観劇レポート
『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健
以来世界各国で繰り返し上演されている作品ですが、日本版は73年に劇団四季が初演。年月をかけて洗練された演出(浅利慶太さん)が特徴的です。歌舞伎や能など古典芸能の要素を取り入れた「ジャポネスク・バージョン」と、リアルさを追求した「エルサレム・バージョン」がありますが、今年の東京公演、それに続く全国公演では後者の「エルサレム・バージョン」の上演となります。
『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健
『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健
圧巻は、裁判からジーザスが十字架にかけられるまでのくだり。群衆たちは気がふれたかのように傾斜舞台を駆け巡り、転び、石を投げつけながらジーザスを呪い、嘲笑。ピラトはジーザスを助けようとするもののその心が読めず、いらだちのなかで死を宣告する。そしてジーザスは人間たちの罪深さ愚かしさを背負って死に赴くことを決意し沈黙を貫く……。それぞれの激情がほとばしり、特に東京公演では自由劇場という、役者と目が合ってしまうような距離感の劇場での上演ということもあって、まるで「すぐそこで実際に起こっている」かのような生々しさでドラマが展開します。(白い大八車を使ったミニマルな装置、演じ手の”素”を消した歌舞伎風の白塗り化粧等を通して、舞台上のドラマを客観的に見せるジャポネスク・バージョンとは対照的。次回のジャポネスク・バージョン上演の折には対比してご覧になるのも一興です。)
『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健
作者ティム・ライスが「この人の視点で物語を書こうと思ったのがJCSの出発点だった」と言う重要人物、ユダを演じるのは芝清道さん。シモン役を経てユダ、そして過去にはジーザスも演じてきた豊かな経験が生き、通常、この役ではシャウト系の歌唱が印象に残るところですが、今回は無言の立ち姿にはっとさせられます。ジーザスを裏切るまでの逡巡のナンバーを傾斜舞台の最上部で板付き(暗転し次の場面となるまでの間に定位置についていること)にて歌うのですが、その歌い始めまでの立ち姿にユダの千々に乱れる思いが滲む。「表現力」とはこういうものかと痛感させられます。
『ジーザス・クライスト=スーパースター』撮影:荒井健
ジャポネスクとエルサレム・バージョンにはビジュアル、音楽アレンジなど様々な違いがありますが、登場人物の動きや位置取りもあちこちが異なります。最も顕著な違いの一つが、幕切れの演出。ジーザスが息絶えた後、ジャポネスク版では彼が磔になった十字架だけが現れますが、エルサレム・バージョンでは星空のもと、十字架の下にマグダラのマリア、シモン、ペテロら数名が集い、見上げます。前者の演出はジーザスの孤独の強調、後者は以後にジーザスが永遠に崇められ、語り継がれることの予兆でしょうか。今回はそれに加え、他者と思いを共有することができず苦悩しながら逝ったジーザスの魂を人々が慰め、コミュニケーションが成就した瞬間のようにも見えます。またたく星の光のように、提示される微かな希望。美しい管弦楽の音色の余韻の中で、観る人ごとに様々な感慨を得られる作品なのかもしれません。