全国に先駆けての子ども棋戦誕生
現在も続く大分合同豆棋士将棋大会
主催は大分県最大の発行部数を持つ大分合同新聞社。小学生将棋名人戦(日本将棋連盟主催)の県予選が開始される20年以上も前のことだ。全国に先駆けての子ども棋戦が、中央から遠く離れた大分県に生まれたのはなぜなのか。
ある人物の思いがスタートだった
この大会は、ある人物の思いから始まった。
「将棋はすばらしい。けれど、子どもの頃の私は、思う存分指せなかった。だから、今の子どもたちには、心の底から楽しんでもらいたい。」
今回は、その人物にスポットをあてたい。
なぜ、その人は、指せなかったのか……。答えは簡単。女性だったからなのだ。彼女の名は、杉崎 里子(すぎさき さとこ)。
漁師の町で
漁港(イメージ画像)
「板子一枚下は地獄」を常とする漁師の町、佐賀関。命がけの漁を終え、陸(おか)に上がった彼らはつかの間の将棋を好んだ。トロ箱を重ねた台の上に盤を載せ、威勢良い声を響かせた。
「王手っ、待ったなしだぞ」
「ちきしょう、もう一番」
「だめだ、だめだ。今度は俺と替われ」
取り巻きの大人達の隙間には、幼い顔の観戦者もいた。もちろん将棋は漁師達の特権ではない。銭湯、空き地、路地……。町のいたるところで行われる縁台将棋は、ごくふつうの景色だった。
父もその一人だった。父は息子達に将棋を教え相手をさせた。彼女は門前での習わぬ経よろしく、見よう見まねで将棋を覚えていった。頼めば、兄弟は相手をしてくれた。いつの間にか将棋に惹かれ、目の色を変えるようになっていく。1週間に一回のお願いが、2日に一度、そして毎日となり、父さえも破る力をつけていった。駒を持つ幼い指先に熱いものを感じていた。
時代の言葉
しかし、当時の将棋は「男のもの」だった。将棋で遊ぶ娘に、母は言う。「男に交じって、将棋を指すのは、やめなさい。あなたは女の子なのよ」
時代という背景を考えれば、けっして理不尽な言葉ではない。そういう女性が求められた世の中だったのだ。将棋は勝負事。勝負事は男のもの。母から駒を捨てられた。
「女のくせに」……。それが、時代の声だった。
彼女自身もその声を肯定する。だからこそ、母の言葉に納得し、お茶、お花、お琴など「女性のもの」に没頭しようとした。お稽古ごとに通い、時代に沿った「女らしさ」を身につけようと努力する。母の安心した顔は彼女の原動力ともなる。そして、成長した彼女はいくつかの職を経て、好きだった裁縫を学ぶべく短大に通い、和裁洋裁なんでもこなすようになる。指先に感じていた熱は灰に埋もれていった。