大成しなかった輪島と北尾、曙の成功の理由は
東富士の引退から27年……大きな話題になったのが輪島大士のプロレス転向です。金色の廻しと“黄金の左”と呼ばれた下手投げで一世を風靡。横綱・北の湖と輪湖時代を築き、大関・貴ノ花(現在の貴乃花親方の父)とのライバル対決で日本中を沸かせた国民的スターだった輪島ですが、引退後に継承した年寄名跡「花籠」を借金の担保にしていたことが発覚。現役引退から5年、38歳で全日本プロレス入団を決意しました。昭和の大横綱・輪島のプロレス転向はスキャンダラスな面も含めて、朝刊スポーツ紙がプロレス報道をするきっかけになったほどインパクトがあったのです。1986年4月のプロレス転向記者会見後、すぐさまアメリカに飛び、ジャイアント馬場の指示で英才教育を受けた輪島は同年11月1日、故郷の七尾で“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンと対戦。過去の名声を捨てて、人生の再起をかける輪島の姿は感動を呼びました。しかし、やはり年齢がネックでした。プロレスはただ勝つだけでなく、相手の持ち味を引き出す“受けの技術”も要求されますが、輪島の場合には巧く受け身が取れずに満身創痍に。デビューからわずか2年の88年12月に引退することになりました。「体力の限界でしたね。相撲には相撲の、プロレスにはプロレスの厳しさがありますよ。プロレスに入った以上、1回はチャンピオンになりたかった。でも相撲のグランドチャンピオンだからって、プロレスでもグランドチャンピオンになれるほど甘くないね、人生は。プロレスはショーじゃなかったよ。いざ自分がリングに上がってみて、ひしひしと感じましたね」と輪島はプロレスラー時代を語っています。
双羽黒こと北尾は87年暮れに立浪親方夫妻と揉めて部屋を飛び出し、事実上、破門になって廃業。88年3月に断髪式を行ってスポーツ冒険家に転身しました。199センチ、157キロの恵まれた身体と、当時24歳の北尾の将来性を買った新日本プロレスの坂口征二社長はプロレス転向をアシストし、不滅の鉄人と呼ばれたルー・テーズの道場を紹介。渡米してテーズの手ほどきを受けた北尾は90年2月10日の新日本の東京ドーム大会でデビューしましたが、派手なコスチュームとパフォーマンスが先行してプロレスファンの不評を買ってしまいました。自分の実力を過信していた北尾はすぐにプロレスのヒーローになれると勘違いしたようです。デビュー後、新日本のシリーズにも参加しましたが、現場監督の長州力と喧嘩して契約解除となり、その後に移籍したSWSでは90年4月1日の神戸大会で対戦相手のジョン・テンタ(元東幕下43枚目の琴天山)にプロレスの範疇を逸脱した死闘を仕掛けた挙句に「八百長野郎!」と暴言を吐いて解雇に。その後は武輝道場を設立、相撲の先輩である天龍源一郎が主宰するWARでプロレス、総合格闘技PRIDEでは格闘家として活躍しましたが。98年10月に引退しています。北尾は優勝しないまま横綱になっており、相撲でもプロレスでも格闘技でも潜在能力を活かしきれずに終わってしまいました。
そして曙です。相撲を引退後、03年大晦日にプロ格闘家に転向して立ち技のK-1のリングでボブ・サップに惨敗、翌04年大晦日には総合格闘技ルールでホイス・グレイシー、05年大晦日には同じく総合格闘技ルールでタレントのボビー・オロゴンに敗れて「マケボノ!」などと呼ばれましたが、08年から取り組んだプロレスに光明を見出しました。実は曙は昔からプロレス志向で、横綱時代の98年に天龍に誘われてプロレス転向を決意し、時津風・相撲協会理事長に廃業届を出して受理されなかったという表には出ていない過去がありました。05年3月、アメリカのWWEに呼ばれてプロレスラーと相撲マッチを行った曙は同年8月1日、両国国技館でグレート・ムタと闘ったことでプロレスに魅せられ、全日本プロレスの武藤敬司に弟子入りして基礎から学び、09年からはプロレスに専念するようになりました。全日本、新日本プロレス、プロレスリング・ノアのメジャーからエンターテインメント系のDDTまで、幅広くプロレスを吸収していったのです。
横綱に限らず、相撲から転向した人は「プロレスじゃなくて喧嘩なら俺の方が強い」と思いがちですが、曙が成功したのは「相撲も、K-1も、総合格闘技も、プロレスも“闘う魂”という意味では同じ」と素直に、謙虚にプロレスに取り組んだことです。厳しい上下関係の相撲界で育った曙は、自分より若い選手でもプロレスのキャリアが長いレスラーはさん付けで呼び、敬語で接しています。
相撲では5年で頂点の横綱になりましたが、プロレスでは三冠王者になるまで8年の時間を要ました。「プロレスでも横綱になりましたね!」の声に「まだまだですよ。まだ日馬富士以下ですから」と笑う曙。プロレスの世界でも大横綱になれるか注目です。