「遠くても買えさえすれば良い」が続いた
戦後からバブル崩壊まで

多摩ニュータウン

1971年に最初の入居が始まった多摩ニュータウン。日本で最大規模のニュータウンで現在も人口は増えている。高齢化が問題になっているが、建替えその他新しい取り組みも出ている。写真は1990年前後に開発が進んだ南大沢周辺(クリックで拡大)

大正から昭和にかけて、宅地分譲は行われてはいたものの、戦前の持ち家率は都市部で2割程度。大半の人は借家に住んでおり、その転換が行われたのは1950年代に相次いで施行された公営住宅法、住宅金融公庫法、日本住宅公団法以降。低所得層には公営賃貸住宅を、中流層には他の2法を用意することで住宅取得を後押しするというものでした。

 

その結果、昭和30年代には住宅取得熱が高まり、40年代後半からはマンション建設が増加します。それまで土地の高低に合わせて行われていた土地利用が造成、埋め立てによって大きく変わったのもこの時代で、昭和36年に宅地造成等規制法が登場するまでは安全性をあまり考慮しない土地改変が行われていた可能性が高いといわれています。

また、この時代はニュータウンが相次いで開発された時代でもあり、寝食の分離、DKの一般化、個室の重視など現在のライフスタイルにつながる暮らしの雛形が生まれています。ただし、この時点では車社会の到来、女性の社会進出はまだ予想されておらず、利便性はまだ街選びの基準にはなっていません。

首都圏の街のブランド化に影響を及ぼしたのが1964年に開催された東京オリンピックです。関東大震災、第二次世界大戦の被災などから、東京の中心は東から西へ移りつつあり、そこに代々木から渋谷、駒沢といった西側エリアを舞台とした東京オリンピックが開催されたのです。それがその後の青山、渋谷、世田谷エリア人気に結びついたのは自然な流れであったはずです。もうひとつ、東京の中心の移動では1991年の都庁の移転も大きな役割を果たしています。

昭和年間の出来事で街選びに関係するもののひとつに、地名を巡る変化、争いが挙げられます。地名自体は場を表すだけの意味で発生したものですが、時代を経るにつれ、その土地本来の姿、災害や発展の歴史をあわらすものとして考えられるようになってきています。しかしながら、その意識が一般に共有されるようになったのは昭和年間に起きたいくつもの裁判を経てのことなのです。

ハナコ創刊号

一世を風靡したハナコ創刊号。巻頭の「いい部屋はステイタス」は私が編集を担当した(クリックで拡大)

さて、続くバブル期。この時代、土地価格、住宅価格が高くなりすぎ、好きな場所に住むのは一部の高額所得者以外には難しかったことはまだ記憶に新しいのではないでしょうか。新幹線通勤という言葉が取り上げられ、住宅購入者の取材に行くのも1日がかり。訪ねた先の人たちには「いくら遠くても、ここにしか買えないからここに買った」という言葉をよく聞かされたものです。ちなみにバブル真っ只中に創刊されたハナコの巻頭特集は「いい部屋はステイタス」。どの街に住むかは選べないから、どんな部屋に住むかは選ぶ、そんな内容でした。

 
最後は自分の住みたい場所を選べるようになるまでの変化です。