一人前の兵士になるための義務を背負った少年
『ヤクーバとライオン1 勇気』では、アフリカの奥地の小さな村で、祭りの準備が始まっています。成長した少年たちが戦士になるための特別の儀式の日。人々が顔を絵の具で彩り、衣装をまとい、お祝いの食事を準備する中、少年たちには、戦士になるための義務が待ち受けています。それは、荒野の中でライオンを見つけ、倒すという使命です。少年ヤクーバも、その使命を背負って出発しました。ライオンが少年に突きつける2つの選択肢
荒野の暗闇で恐怖と闘うヤクーバの前に、突然牙をむいて姿を現したライオン。しかしそのライオンは、夜通し敵と戦って深く傷ついています。ヤクーバがしとめることも、たやすいことのようかに見えます。そのヤクーバに、ライオンが2つの選択肢を突きつけます。1つは、「自分を殺して村人たちに立派な男として認められること」。もう1つは、「村人たちから仲間はずれにされることが分かっていながら、自分を殺さないこと」。ライオンは、「殺さない」選択こそがヤクーバを気高い心を持った人間にする、と説き、一晩中考え抜いたヤクーバは、ライオンに手をかけずに村に帰ります。仲間の少年たちが「名誉ある戦士になるための義務」を果たしていく中で、ヤクーバは、村のはずれで牛たちの世話をする仕事のみに従事していくことになります。
成長した少年とライオンの「任務と任務のぶつかりあい」
『ヤクーバとライオン2 信頼』では、大人になったヤクーバの暮らす村とその周辺は、人も動物も次々に命を落としていく厳しい飢饉に襲われていました。かつてヤクーバに命を奪われなかったライオンの王者キブウェは、仲間のために獲物を見つけるという重責を負い、ヤクーバが世話をする数少ない牛を狙いにいきます。再会したヤクーバとキブウェは、それぞれが、仲間のために食料を確保しなければいけないという「任務」を背負っています。それは、ライオンにとっては、牛を襲って仲間の食糧として持ち帰ること、ヤクーバにとっては、牛をライオンから守ること。真っ向からぶつかり合う任務を前にして、ヤクーバとライオンが繰り広げたのは、夜を通した力の限りの見せかけの戦い。守らなければならない仲間たちを背にしながら、お互いを傷つけないことに最大の力を振り絞った戦いをしたのでした。
食い止められた「報復の連鎖」
何度読んでもすっきりしない気持ちが残ります。『ヤクーバとライオン1 勇気』で、ライオンはヤクーバに「わしを殺さないことで本当に気高い心を持った人間になれる」と言いますが、自分が生き延びるための作戦ととらえることもできるでしょう。協力し合うことで厳しい自然の中で生きていくコミュニティの中で、倒すべき存在とされていたライオンを倒さなかったヤクーバの選択は、どうとらえるべきなのか。『ヤクーバとライオン2 信頼』で、お互いに守らなければならない存在が見守る中で、見せかけの戦いを繰り広げたヤクーバとライオンが守ったのは、仲間たちではなく自分自身の気持ちだったのではないかという思いもわき上がります。しかし、すっきりしないのは当然のこと。民族や国家を超えた大きな争いから、身近な仲間や家族との小さな争いまで、すべてそこには、双方の立場や言い分があり、すべての存在を納得させられる「正義」はありません。その中で、自分が信頼できるものは何なのか、それを必死に守る勇気とは何なのかという重い問いを投げかけるのが、人間ヤクーバとライオン・キブウェの物語なのです。
1つのゆるぎない事実として残るのは、ヤクーバとキブウェの心の交流によって、「報復の連鎖」が食い止められたということです。
「正解」のないテーマ
ヤクーバとキブウェがそれぞれの仲間を守るために抱えたものを「任務」という言葉で表現した訳者の柳田邦男さんは、あとがきで、絵本の中でこの言葉を使うことがふさわしいかさんざん悩んだと明かしています。小学校の低学年ぐらいの子が、この2冊の絵本が訴えていることを読み取るのは難しいようです。しかし、時を置いて繰り返し触れることで、異なる立場に置かれた者同士の「任務」や「信頼」というものが、少しずつ、自分なりのとらえ方で心の中での存在を大きくしていくようです。小学4年生のクラスで、子どもたちにこの絵本を読んだことがあります。ヤクーバと見せかけの戦いをした後に去って行ったライオンについて、1人の男の子から「ライオンは死んだのですか?」という質問が出ました。自分を信じたライオンの去る姿を見ながら、その行き先は、ヤクーバでさえ分からないでしょう。
先日、講演会で函館を訪れた柳田邦男さんは、「人は、人生の節目節目で大事な言葉に気づいたり、その言葉を身近な人と共有したりすることができる」と語りました。この絵本を読んだ人は、どのような言葉や気持ちをヤクーバやライオンと共有し、その後の生活の中で他の人たちと共有していくのでしょうか。