引退後も多忙な毎日の小橋建太
不屈の男が引退を決意した理由
さる5月11日、格闘技の殿堂・日本武道館で“鉄人”と呼ばれ、平成の日本プロレス界を牽引してきた小橋建太が現役生活に別れを告げました。常に身を粉にして全身全霊でファイトする小橋のプロレス人生は、リング上の対戦相手だけでなく、怪我との闘いでもありました。両膝、両肘を何度も手術。06年6月には腎臓癌が判明、右腎臓を摘出してカムバックは絶望的と言われましたが「腎臓癌は10年の間に転移しなければ完治と言われるけど、10年間、腎臓のことだけ考えて何もやらずに生きていくより、逆に自分のやりたいことを一生懸命やって限りある命を大切にしたい」とカムバックを決意。07年12月2日、546日ぶりに奇跡の復帰を果たしたのです。
そんな不屈の男・小橋が引退を発表したのは昨年12月9日の両国国技館。同年2月19日の仙台における東日本大震災チャリティ興行でムーンサルト・プレスを放った際に左脛骨亀裂骨折、右膝内側側福靱帯損傷、右脛骨挫傷の怪我を負って欠場していましたが、引退理由はその怪我ではなく、MRI検査で判明した頸椎の故障でした。
数年前から左腕に痺れを感じ、左脚まで力が入らなくなっていたそうですが、それは頸椎に原因があったのです。7月に首にメスを入れて神経を圧迫している部分を除去、そして左腰骨を首に移植しましたが、8月に骨盤が割れて歩行困難に。遂に小橋は「もはや完全復活は無理」と引退を決意しました。
「小橋建太のプロレスができなくなったから」と小橋は引退理由を語りましたが、そこには09年6月13日に広島のリング上で三沢光晴さんが亡くなるという悲しい事故が大きく影響していました。「この身体の状態で無理してリングに上がり続けて事故が起こってしまったら、プロレス界に迷惑をかけてしまうし、ファンも夢を持てなくなってしまう。プロレスが好きだからこそ、引退を決断しなければ」と、踏ん切りをつけたといいます。
引退試合が決まった時に「しっかり花道を歩いて帰る、しっかり引退することが師匠のジャイアント馬場さん、三沢さんへの恩返しだと思っています」と言っていたのが印象的でした。
小橋はファンに支えられ、ファンは小橋に勇気を貰った
引退試合は縁ある選手が団体の枠を越えて集う壮大な祭りに。チケットは前売りで即日完売して当日券の発売はなし。超満員1万7000人のファンが集結しました。さらに全国13都道府県15の映画館でライブ・ビューイングとして中継され、BS放送でも生中継。野田佳彦前首相、AKB48の倉持明日香なども花束を持って駆けつけ、昭和のプロレス黄金時代を彷彿とさせる盛り上がりになりました。小橋の偉業は、これといった格闘技の実績がないままサラリーマンをやめて一介の新弟子としてスタートしながら努力と精進でプロレス界の頂点に立ったことです。小橋が入門した全日本プロレスは、かつてはトップスターになるのはミュンヘン五輪レスリング代表のジャンボ鶴田、元大相撲前頭筆頭の天龍源一郎など、他のスポーツで実績があり、スカウトされた選手だけでした。スカウトされたエース候補生と、その他の一般入門者にはっきり分けられていたのです。そうした中で小橋は「何もバックボーンがない自分は、人一倍練習するしかない」と練習の虫になりました。小橋の熱心なファイトはファンに後押しされ、やがて馬場も小橋を認めるようになり、チャンスを与えるようになりました。そうして一歩一歩階段を上がり、遂には頂点の三冠ヘビー級王者にまでなったのです。プロレスリング・ノアではGHCヘビー級王者として“絶対王者”と呼ばれました。
そのサクセス・ストーリーはエリートではない若手レスラーにとって「努力次第では俺たちでもトップになれるんだ」という希望の光でした。また、必死に階段を上がっていく小橋の姿を自分にオーバーラップさせて勇気を貰ったファンも少なくないでしょう。
「何もない自分が頑張れたのはファンの声援があったから。それに応えることでファンの人が元気になってくれて、それでまた声援を送ってくれた。それにまた応えて……というプロレス人生でした。ファンのみんながいてくれたから、ここまでやれた。僕にとってプロレスは感謝であり、青春なんです」(小橋)