「カースト」に敏感な「キョロ充」

ゲームではなく現実の人生の「勝者」を、リアルな生活が充実しているとして、リア充と呼ぶ。学歴や職業や在籍する会社などのブランドタグがいくつもついて、容貌や健康などの生物学的スペックが高く、モテるがゆえに人脈も広く友人からの誘いも多く、平日はもとより休日も大忙しである(らしい)。

実際にどれほどそんな絵に描いたようなリア充がいるのかは別として、リア充的な(あるいはそんな都市伝説的な)生き方を教科書とし、憧れ、周囲との相対評価の中でのみ生きている人々をキョロ充と呼ぶらしい。不安そうにキョロキョロ周りを見回して常に人まねをし、「あの人よりはまし」と人を見下して得る快適の中に住み、うわさ話と妬みそねみを主食とするようだ。

キョロ充こそ、「カースト」に最も敏感である。集団を見回したときにその場の最上層(ボス)と最下層(奴隷)を瞬時に見極め、泳ぎ方のプランを組み立てる、鋭敏な知覚能力を持つ。上の下とか中の上とか、他人にはよく分からない細かな基準でランキングを作って分析する。

キョロ充にとってはそれが生存戦略なのだが、しかし相対評価の中に生きることによって、「他人と比較して自分の位置を知る」という檻の中に永久に閉じ込められ、相対評価の奴隷となっていることに気づいて欲しい。その檻こそ、法制として身分階層制度が廃されているはずの日本で人々が嬉しそうにもてあそび始めた「カースト」の概念である。生まれた瞬間から死後に至っても本当のカーストに縛られ翻弄されるインドの人々の前で、こんな陳腐な話は非礼すぎてできるわけがない。こんな無邪気な言葉遊びができる日本は、つくづく平和で豊かなのだ。

不安なひとには見えてしまう幽霊

日本人が人間関係の息苦しさを無邪気に表現する「カースト」は、ある人々にとっては、その存在を認めた途端、もの凄いリアリティを持って屹立する。「カースト」などないはずなのに、人間関係を「カースト」と感じてしまう人達にとっては存在するのである。疑心暗鬼を生ずとはよく言ったものだ。疑う心や恐れる心が強くなると、何でもないことが恐ろしく思えてくる。幽霊みたいなもんで、不安な人には(実在しなくても)「カースト」が見えてしまう。そして見えてしまうと、生きづらく難儀だ。

メタファーに取り込まれるナンセンス。だから世の中に流れることを全部真に受けていたら身が持たないのであるが、その人が持つ不安感の裏返しなので仕方がない。