女として「所有されること」がゴールの文化

現在私の住む町にはイスラム女性がたくさんいる。ある猛暑の夏の日、駅前の大通りをピカピカ輝く高級オープンカーが疾走し、街ゆく人々の視線を釘付けにしていた。いかにもマネーとパワーを感じさせる浅黒い体躯にサングラス、白いシャツの胸を開けた中東の男、助手席にはそんなに暑い日だと言うのに全身を黒いブルカに包み、目だけを出した女性が座っていた。まっすぐに座った堂々と気品のあるたたずまい、ビロードのような濃く長いまつげ、美しく化粧されたその眼差しだけで、その女性の美しさは充分に伝わって来た。

「あぁ、あの女の人はああやって金持ちの男のオープンカーの助手席で、街ゆく大衆に見せびらかされてもなお、ブルカを全身にまとっていなければならないのだ」と思った。美しい女を手に入れ、他の男を煽情しないように真っ黒な袋を被せ、高級車の助手席に乗せて、男は気持ちよく風を浴びて走り抜ける。なんというエゴだろう、と私には思えた。だが明らかに、あのオープンカーの二人は彼らの文化の勝ち組同士なのだ。数多の女の中で優れている結果として、所有されることがゴールとなる、そういう文化もまた、依然、存在する。

現代の若い母に秘められた「闘うポテンシャル」

始めの問いに戻ろう。「母は女でなければならんのか」。母親であることと女性であることは、ほとんどのケースにおいて、原義からして不可分だ。が、母であることが、オンナとしての競争に優れていることと同義であるとはこれっぽっちも思わない。事実、若い母たちは既に武器を持ち替え始めている。でも、妻は、妻である限りはオンナであることを要求される場面があるだろう。または、武器を持ち替えた若い母たちが、そうやって守り続けているはずの家庭を手放す事情ができた時、あるいはそれに飽きてしまった時、再びオンナに戻るかもしれない。母として、妻として、オンナとして、それぞれの「競技場」でフル武装して闘うポテンシャルのある女たち、それが現代の若い母たちのマジョリティなのではないかと、私は競技場の階段の踊り場にて、そう考えている。


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