泣く子どもの理由を度外視しした「しつけ論」の暴力
乗り物で酔ってしまう子ども、あるいは公共の場で狂ったように泣きわめいてしまう子どもは、確かに大人からするとやりにくくて育てにくい。そしてそういう子どもを持ったことのない社会からみれば、事実とは全く関係なく「しつけがなっていない」「バカ親のバカな子ども」に見えるのかもしれない。それは、むかし私自身がそう思っている冷たい人間だったから、容易にわかる。しかし、実は彼らは往々にして知的で心身ともに感受性が高く、想像力が豊かだから、不快に対して激しく反応するのだ。まだ不快な気持ちをちゃんとした言葉にできないから、泣いて訴えるしかないのだ。あるいは戻したりして、身体的反応に出るのだ。
子どもは一人一人が「人間」だから、 個体差があり、脳のクセがあり、行動のクセがある。大人と一緒だ。
人に迷惑をかけないこと、は立派なマナーだろう。しかしそのマナーが全ての赤ん坊や幼児に身に付いているべきでそれ以外は認められないのだとしたら、それは発達や性格などの個体差というものが度外視された、抑圧的な社会だと思うし、一元的で薄っぺらい、貧しい人間観の社会だと思う。
なぜなら、子どもは「成長中」だからだ。無音で無臭で大人の世話を必要としない、面倒くさくない子どもなど、観念か二次元の中にしか存在しない。子どもは泣く。戻す。漏らす。子どもの成長とは、心身両面で学び、適応することなのである。子どもにはイレギュラーな粗相がつきものなのだ。
子どものあらゆる「粗相」をイレギュラー視して嫌う社会は、子どもが存在する隙のない社会だ。そして子どもが存在する隙のない、子どもがいない社会は、未来のない社会でもある。