江戸時代に開発、
市街化された庶民の街

清洲橋通り

地下鉄駅周辺から清洲橋通り。通り両側に高層の建物が並ぶ

平成12年(2000年)、平成15年(2003年)に相次いで都営大江戸線、東京メトロ半蔵門線の駅が登場、街が変化し始めた清澄白河(江東区)。駅名は清澄、白河という隣接する地名にちなんでいます。この2つの町は駅のある清洲橋通りを挟んで小名木川沿いに広がり、南側には三好、深川、福住、佐賀といった町があります。このうち、清澄、深川、三好などは江戸時代にこのエリアを開発した人の名や人数にちなむ地名と言われており、江戸の早い時代から市街化されてきたことが分かります。

 


深川資料館通り

清澄庭園の向かいにある、深川資料館通りの入り口。通りには寺社も多い

その、江戸時代末期、天保年間頃のこのエリアの様子が復元されているのが昭和61年、区役所の東陽町移転に伴い、作られた深川江戸資料館です。表通りに土蔵のある大店が並び、路地に長屋、掘割に猪牙舟の浮かぶ展示は非常にリアルで分かりやすく、この街を知りたい人にはお勧めです。江東区は街の歴史保存に熱心なのでしょうか、区ホームページ内の区内の地名についての詳述もあり、街を知る上で参考になります。

 


清澄庭園

池の周りに全国から集めたという石が配された清澄庭園。富士山を模した築山もある

庶民の生活とは少し離れますが、当時から伝わる風物でいえば、都の指定名勝となっている清澄庭園が挙げられます。江戸の豪商紀伊國屋文左衛門の屋敷跡とも伝えられ、明治時代に岩崎彌太郎が社員の慰安、貴賓招待の場として造園に着手、その後の工事によって現在の姿になりました。庭の美しさに加え、現在では東京スカイツリーが望めることもあり、カメラを向ける人の姿が多いスポットになっています。

 


地下鉄駅開業でタワーマンション増、
街も変わった

復興住宅

清澄庭園脇に残された関東大震災復興事業として昭和7年に建てられた店舗付き住宅。現役で使われている

江戸の賑わいから一転、大正、昭和には不幸な出来事も起こっています。それが1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の東京大空襲。このエリアはいずれにも大きな被害を被り、清澄庭園は避難所として多くの人命を救っています。

 


イーストコモンズ清澄白河

同潤会アパートは何棟かのタワーを含む住宅に生まれ変わった。交差点角、かつてのアパートの象徴だったエリアには32階建のタワーになっている

その後も通り沿いにはビルなどがあるものの、住宅、小さな工場が混在してきた街が大きく変わり始めたのは平成12年(2000年)、平成15年(2003年)の地下鉄駅登場以来。これまで都営新宿線、東京メトロ東西線が南北に走ってはいたものの、いささか距離のあった場所ですから、都心への複数直結ルートができたことで一気に注目度が高まったのです。特に2006年(平成18年)に白河3丁目の交差点を中心に16棟、663戸と同潤会最大規模の住宅群、同潤会清砂通アパートが再開発で30階以上を含むマンション群に生まれ変わったのが大きなところ。あっという間に20階~30階以上のマンションが目につくようになりました。

 

元布団工場のギャラリー

元ふとん工場を利用したギャラリー。骨組みはそのままに白く塗ってある

それに伴って街の雰囲気も変わりました。前述した深川江戸資料館が面する商店街は戦後すぐに商店会として形成されてきた場所ですが、通り沿い、周辺には昔ながらのおでん屋さんや呉服屋さんに混じり、空いていた古い店舗、工場などを利用した書店やギャラリーなどが増え、新しい雰囲気も。通りから外れた場所を歩いてみると、発見があります。

 

●今回取り上げているエリアと周辺の概念図
地域概念図

清澄白河周辺の主要駅、主要道路と記事中に名称の出てきた施設など。概念図であり、距離、位置は正確ではない


のらくろ~ド

小名木川と並行する高橋のらくろ~ド(高橋商店街)。最寄駅は森下になる

生活でいえば足回りの利便性は行先の異なる2線2駅、多少歩けば都営新宿線の菊川駅も利用できますし、清洲橋通り、清澄通りなどの幹線道路も近く。約100店舗が軒を連ねる深川資料館通り商店街のほか、小名木川を越えれば高橋のらくろ~ド(高橋商店街)があり、通り沿いにはスーパーも何軒か。また、駅からは距離がありますが、東京都現代美術館をそれに続く木場公園はファミリーには人気。周辺には子ども連れで楽しめるカフェなども増えています。条件を挙げてみると、住宅地としての注目されるのはよく分かります。

次のページでは気になる清澄白河の住宅事情を取り上げます。