ルクセンブルクの歴史 1.成立と多文化の形成
ノートルダム大聖堂の内部。柱に彫られた模様がイスパノ・モレスク様式の特徴
ルクセンブルクはローマ時代から交通の要衝であったが、飛躍するのは10世紀からだ。963年、ジークフロイト伯爵がボックフェルゼンの岩山にボック城を築く。この城は小さな城=ルシリンブルクと呼ばれたことから、やがて伯爵家はルクセンブルク家を名乗るようになる。
ルクセンブルク家は神聖ローマ帝国皇帝を4名も出す名家に成り上がり、1354年には公国として認められた。この時代にヴェンツェル2世がボックフェルゼンの周囲に築いたのがヴェンツェルの環状城壁だ。
1443年にルクセンブルクはフランスのブルゴーニュ公フィリップ善良公に買われ、征服される。その後フランスとルクセンブルクは領土紛争を繰り返し、築城→破壊を繰り返すようになる。
ギヨーム2世広場にあるルクセンブルク大公ギヨーム2世(=オランダ国王ウィレム2世)の騎馬像
結婚戦略によってブルゴーニュ公を継承したハプスブルク家は神聖ローマ皇帝を世襲するようになり、カール5世の時代にルクセンブルクもハプスブルク帝国の一部として組み入れられた。カール5世はスペイン国王も兼ねていたため、この時代にスペインの文化がルクセンブルクにもたらされた。大公宮殿やノートルダム大聖堂はこの頃(16~17世紀)の建築だ。
ルクセンブルクの歴史 2.戦乱と独立
ボックの砲台に据え付けられた大砲。18世紀、オーストリア軍が築いた地下要塞の全長は26kmにもなり、アリの巣のように何層にも広がっている
フランスと神聖ローマ帝国の戦いが激化すると、両国の国境にあるルクセンブルクは最前線となる。三十年戦争に巻き込まれ、1684年にはフランスの太陽王ルイ14世に囲まれ、占領されてしまう。以降ルクセンブルクは、ハプスブルク家が引き継いだオーストリア領に組み入れられたり、ナポレオンのフランス帝国に組み入れられたりと、フランス領とオーストリア領の間を行き来することになる。
旧市街を見上げる。要衝というだけに飛行機雲も入り組んでいる
ルクセンブルクがドイツ連邦下の大公国として認められたのは1815年のウィーン会議だ。といっても連邦下にあったり、オランダの一部になったり、ベルギーの一部になったりとなかなか安定しなかったが、1839年、ついに独立を果たす。1867年のロンドン条約で永世中立が保障され、戦乱続きであったルクセンブルクについに平和が訪れる。このとき城砦や地下要塞の多くが撤去された。
なお、ルクセンブルクはNATO(北大西洋条約機構)などヨーロッパのさまざまな機構に参加するため、1948年に永世中立を放棄している。