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代々木上原、坂と商店街とお屋敷、緑の街

小田急線と東京メトロ千代田線が重なる渋谷区内でも有数のお屋敷街代々木上原。庶民的な商店街やしゃれた店もある、坂の街代々木上原の住み心地を隅から隅まで歩いてチェックしてきました。

中川 寛子

執筆者:中川 寛子

住みやすい街選び(首都圏)ガイド

明治時代には牧場、大正に入ってお屋敷分譲
昭和に足回りアップで現在の姿に

千代田線
千代田線と小田急線は相互に乗り入れをしており、最近では千代田線内をロマンスカーも走る
新宿から小田急線急行で4分、あるいは表参道から東京メトロ千代田線で6分。駅のすぐ近くに井の頭通り、少し行くと山手通りと足回り抜群の代々木上原は知る人ぞ知るお屋敷街。しかし、江戸時代には武蔵野国豊島郡の一部で目立つものと言えば代々木八幡、荼毘所(現在の代々幡斎場)があった程度。江戸中期から後期にかけては駅の北側にある西原の高台に武家の下屋敷などがあったそうですが、それでも代々木村自体(代々木上原を含む、もう少し広いエリア)は茶や麦、蕎麦などを栽培する畑や水田、竹やぶなどが広がる農村だったと言います。

明治になって代々木村は幡ヶ谷村と合併、代々幡村となり、それが宅地化し始めるのは大正に入って電車が敷設されて以降。それでも明治末期には代々木から幡ヶ谷エリアに牧場が集中、太平洋戦争前には6ヵ所もあったそうで、今の都市化した風景からは想像もつきません。

大山町の邸宅
区画が大きすぎて撮影に困るほどの住宅街が続く、西原~大山町あたり
宅地化の大きなきっかけとなったのは大正12年に起こった関東大震災。代々木上原周辺は淀橋台という高台で震災の被害が少なかったため、宅地として安全と思われたのです。そこで分譲されたのが現在の西原~大山町にかけての高台で、その名も徳川山。西郷山や島津山など東京の名だたるお屋敷街分譲を手がけた箱根土地(西武鉄道の不動産開発部門。その後国土計画、コクドと名を変え、現在はプリンスホテルに合併されています)が大正14年に分譲、今もその区画は美しいお屋敷街として残されています。

しゃれた雰囲気のレストラン
わざわざ遠くからでも食べに来る人がいる有名店も少なくない
その後昭和2年に小田急線新宿~小田原間が開通、代々幡上原駅が開設され、駅前には小さいながらも商店街が登場します。この商店街が徐々に拡大した姿が、今の上原銀座商店街です。さらに昭和53年に東京メトロ千代田線代々木上原駅が開設、都心へのアクセスが格段に良くなり、注目度もアップ。外国人向きの高級賃貸なども増加し始め、趣味の良いレストランも急増。しばしば雑誌にも取り上げられるようになっていきます。

古賀政男音楽博物館
井の頭通り沿いでひときわ目立つ古賀政男音楽博物館。これが個人住宅の跡地だというのだからびっくりだ
今、街のランドマークとなっているのは井の頭通り沿いにある古賀政男音楽博物館(平成9年オープン)とトルコ政府管轄の白亜の寺院「東京ジャーミー」(平成12年完成)。さらに平成14年には井の頭通りの拡幅工事が終了、より便利になりました。

続いて地形と住宅の関係、商店街の様子を見ていきましょう。

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