江戸時代の武家屋敷、寺社が
街並みに影響を残す歴史ある街
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柳沢家から三菱財閥の岩崎家所有になった後、東京都に寄付され、現在は都立の公園となっている六義園 |
文京区は区内の向ヶ丘弥生町(現在の弥生1丁目)で発見された土器が弥生時代の名の由来になっているほど、古くから人が住んできた場所。旧石器時代にはすでに集落があったとされ、駒込駅近くの六義園から本郷通り東側(本駒込6丁目~5丁目)にかけても弥生時代後期の遺跡が数多く出土しています。江戸時代には区域の大半が武家屋敷や寺社となっており、現在、都の公園として公開されている六義園も元々は犬公方として知られる5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保の下屋敷でした。
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駅の北側、豊島区内にある妙義神社。境内には桜の古木が多く、季節には空一杯の桜が楽しめるそうだ |
こうした由来からすると、この街に寺社が多いのは当然のこと。何しろ、駅のすぐ向かいに神社があるほどで、夏から秋にかけてはあちこちの神社の祭礼が行われています。寺では人気の街、吉祥寺の地名の由来になった吉祥寺や目赤不動と称される南谷寺などがあり、特に駒込駅の南側の本郷通り沿いには数多くの寺院が並びます。
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不忍通り沿いにある文京グリーンコート。スーパーや飲食店も入っており、スーパーの少ない駒込では重宝されている。小石川中等教育学校はこの並びにある |
また、かつての武家屋敷の広い区画を利用して作られた病院や学校、施設なども点在しています。駒込駅からはちょっと離れますが、ガンや感染症治療に評判の高い都立駒込病院はかつての鷹匠屋敷跡ですし、理化学研究所を経て現在は住居、オフィス等の複合施設・文京グリーンコートが建っていた場所からも武家屋敷で所蔵していたと見られる調度品が出土しています。その隣にある、理科系の教育レベルの高さで知られる東京都立小石川中等教育学校(旧都立小石川高校)も同様です。ちなみに小石川高校は民主党の鳩山由紀夫氏、小沢一郎氏の母校。自由な校風も特徴です。その他、周辺には私立校も点在しています。
住宅街としてのイメージを作った
大正時代の田園都市構想
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住民が組織する社団法人が運営する大和郷幼稚園。当時の開発が住宅だけでなく、コミュニケーションや子女の教育にも目配りされたものであったことを物語る |
さて、そもそも武家屋敷などが多く、歴史を感じさせる街だった駒込のイメージをさらにアップしたのが大正時代に行われた宅地分譲です。当時、一帯の土地を所有していたのは三菱財閥の岩崎家でしたが、本宅は湯島近くにあり、駒込の別邸はほとんど使われていない状態。そこで、世の住宅不足を解消しようと宅地として開発することにしたのです。
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どちらかといえば和風の邸宅の多い、かつての大和郷エリア。文京区、豊島区の2区に渡って広がっている |
その一画が大和郷(やまとむら)と呼ばれる、六義園から白山通りにいたるエリアです。今でも地図で見ると、整然とした広い区画が分かるほどで、当時は100坪、200坪(330m
2~660m
2)という単位で分譲されていたとか。大邸宅というまではないものの、今の基準で言えばお屋敷といっても良いほどの広さの分譲だったわけです。分譲にあたっては田園都市を作ろうという岩崎家の志を汲むものだけが集められたとも言われており、景観に配慮した広々として街並みが作られることになります。
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エリア内に建設中のマンション。エリア内には地域の雰囲気にあわせ、低層のグレード感のあるマンションが多い |
しかし、その美しい街並みは空襲で全面積の3分の2が焼けるほどの大打撃を受けます。さらに、戦後は相続税が住民を悩ませます。その結果、古くからの住民は年々減少、昭和30年以降は当初の住民たちが作った街並み規制のルールがなし崩し的に通用しなくなり、土地の切り売りやマンション建設などが始まってもいます。とはいえ、現在も区画や道の広さに変りはなく、ところどころには趣のある和風建築の住宅が残されるなど、雰囲気はそこかしこに。大和郷の存在は今も駒込のイメージアップに貢献しているといえそうです。
では続いて駒込周辺の商店街と自治体事情を見ていきましょう。