1ページ目 【ウェーバーの唱えた合理的官僚制理論】
2ページ目 【代表的な官僚制批判論~マートンの理論】
3ページ目 【シューバートの「公益観」理論と官僚制】

マートンの官僚制批判1 訓練された無能力

官僚制の逆機能
マートンは官僚制の合理的機能から生まれる阻害機能を逆機能と呼んだ。
ウェーバーがもっぱら官僚制を合理的側面からのみ論じている、という批判はいろいろでてくるのですが、その代表的な論者がマートンという人です。

マートンは官僚制のなかに「訓練された無能力」という現象を見いだしました。

例えば、官僚制内部では前のページでお話ししたような原則があり、これをみんなが守ろうとします。しかし、それは必ずしも合理的な形で行動に現れるわけではない、というのです。

例えば規則を守る、ということを忠実に守ろうとして、市役所の職員が大事故に遭遇したにもかかわらず、人々の救助よりも自分が遅刻せず規則とおり出勤することを第一にしようとしたりすることなどがそれです。

つまり官僚として規則を遵守することを過剰に叩き込まれた結果、官僚として訓練を受けたことが、かえって官僚としての無能力、官僚が真に行うべきことを行わない不作為を招く、ということです。

マートンの官僚制批判2 目的の転移・逆機能理論

またマートンは、官僚制のなかから「目的の転移」という現象も見いだしました。

そもそも合理的政策実行のための「手段」であったはずの官僚制の原則が、それ自体「目的」となってしまう。官僚制においては、このようなことがしばしばあるとマートンは指摘しています。

例えば、規則による規律の原則は「法規万能主義」となり、行政職員の杓子定規的な対応を生んでしまう。本来何かを解決するためにあるものが規則であったり法令であったりするわけです。しかし、官僚制ではしばしばそれを守ることが「目的」となってしまい、柔軟な対応ができなくなってしまうというのです。

ほかにも、「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)」という言葉があります。「規則や礼儀などが、こまごまとしてわずらわしいこと」をいいます。

官僚制の中で文書主義が過剰に働いてしまうと、そのうち文書をたくさん作ること自体が目的になってしまうことになってしまいます。その結果、細かな規則や形式にだけとらわれ、中身の乏しい文書だけが生み出されたり、または官僚が民間に対しそれを要求するため、行政の能率が極端に落ちてしまうことが起こってしまったりします。

さらに、ウェーバーは「官僚制の非人格制」、つまり官僚制は機械のように動くことで、公平さを実現すると考えましたが、マートンは、これが不親切で横柄な態度につながると考えました。

さらには、明確な権限の原則が「セクショナリズム」となり、行政の縦割り主義・縄張り主義を生み、官僚制内部では国民の利益よりも省庁の利益が優先されるなどといったことが指摘されています。

マートンはこのような官僚制の現象を「逆機能」とよびました。当初は目的のために作られた合理的な機能、すなわち「順機能」が、同時に目的を阻害する「逆機能」としての面を持つ、ということです。

つまりマートンは、官僚制内部でしばしば自分たちの規律や方法論にこだわる結果、官僚制集団の維持そのものが目的になってしまい、市民に対する柔軟な行動などは後回しとなってしまっていることを指摘したのです。

その他の官僚制批判論

強固な官僚制
官僚制はいったん固まってしまうと、それを壊したり修正することが極めて難しい組織形態だとされている。
他にも、官僚制批判論はいろいろとあります。

たとえばセルズニックという人は、セクショナリズムの問題にも似ているのですが、官僚制のなかでの専門化の進行により、組織内の下位集団が、組織の目的と反する価値観や行動をとることがある、と指摘しています。

官僚制の非効率性、という面では、ワグナーという人が「公共部門の財政支出は経済の成長率を上回る速度で膨張する」と述べています。

また、ピーターという人が法則化した「ピラミッド型の組織で職員が昇進していく結果は、往々にして自分の能力を超えた地位にまで上り詰める」という指摘もあります。

しかし、官僚制はウェーバーも述べたように非常に強固なもので、なかなか打ち壊すことができない。日本だけでなく、官僚制の硬直化に悩み、政治の力をもってしても変化させられなくて悩んでいる国は多いのです。

最後のページでは、日本での官僚の「公益観」という観点から官僚制をみていくことにします。