(記事掲載日/2008.4.30)

チベットについて、世界が騒然となりました。チベットとはいったいどういう地域なのでしょう。なぜ中国の領土なのか、なぜ中国から独立を主張する人がいるのか、そして

1ページ目 【チベット人はチベット自治区だけ住んでいるのではない】
2ページ目【ダライ・ラマなどチベット仏教のしくみとは?】
3ページ目 【チベット問題の背景・歴史・そして今後はどうなるのか】


チベット民族(チベット人)とは?

チベット人の分布
チベット族の分布。チベット自治区以外にも、チベット族の自治州・自治県などが設けられている。
チベット高原に居住し、チベット語系の言語を話すことはもちろん、独特のチベット仏教を信仰していることが特徴です。

チベット系の民族はチベット自治区だけに居住しているわけではありません。チベット自治区に居住しているチベット人はおよそ半分弱で、24%ほどが四川省に、20%ほどが青海省に、8%ほどが甘粛省にそれぞれ居住しています。

また、チベット系の民族は中国だけでなく、隣国ブータンの主要民族となっています。

もう少しお話しすると、「チベット族」の定義は中国が行った「民族識別」によるものであり、実際にはチベット語系の言語を話し、チベット仏教を信仰するメンパ族という民族もいます。

いずれにせよ、チベット人=チベット自治区の人たち、というわけではないので注意が必要です。

近代までのチベットはどんな感じだった?

清王朝とチベット
チベットは400年あまり前から「中国」だったのか、それとも独立していたのか?
古代のチベット高原がどのような様子だったかは、資料が少ないこともあって、よくわかっていません。

7世紀、チベットに吐蕃王朝が成立します。吐蕃は次第に勢いを増し、たびたび唐王朝が支配していた中国に侵入、763年には唐の都長安に侵入するに至ります。

この吐蕃王朝が建国されたときに、仏教が入り、支配層に受容されたと考えられています。それが次第に独自のチベット仏教になっていくのですが、吐蕃王朝時代には王によって仏教を迫害する者も現れていて、仏教に基づく政治はまだ確立されていませんでした。

また、チベット文字が作られたのも吐蕃王朝時代です。

吐蕃王朝が衰えた後も、チベット高原はしばらく独立した状態でしたが、モンゴル族王朝であった元の皇帝フビライ・ハーンによってチベットは征服されます。

しかし、フビライは仏教指導者だったパクパという人を「師」と仰ぎ、チベットの支配権を委ねました。そのためチベットの独立状態は変わらず、かえってチベット仏教がモンゴル族に普及するほどでした。

17世紀になると、チベットではダライ・ラマを法王とする政教一致体制が確立していきました。ダライ・ラマ政権はチベット支配のため中国支配を始めたばかりの清王朝と結び、チベットにたびたび干渉していたモンゴル族を撤退させることに成功します。

以後1950年まで、ダライ・ラマ政権によるチベット支配が続いていきました。

しかし、この体制を「ダライ・ラマ政権と清王朝の同盟関係」とみるか、「清王朝によるダライ・ラマ政権の保護」とみるかは、現在のチベットの地位を考える上で少なからぬ影響があります。

つまり前者だと見た場合は、チベットは1950年まで独立国家だったといえるでしょうし、後者だと見た場合は、チベットは清王朝の時代から中国の保護領だったといえるわけです。

それでは次のページではチベット仏教、ダライ・ラマについてみていくことにします。