(2006.07.04)

イスラエルからの大規模攻撃を受けるなど、いつも中東のただなかで大国と武装集団に翻弄される国・レバノン。「中東のモザイク国家」とよばれるレバノン政治の最新基礎知識を解説します。

1ページ目 【複雑な宗派モザイク国家レバノンとは】
2ページ目 【レバノン内戦とシリア・イスラエルの介入】
3ページ目 【武装組織ヒズボラをめぐる国際的な構図とは?】

【複雑な宗派モザイク国家レバノンとは】

太古から周りに翻弄されてきたレバノン

レバノン地図
レバノンは交通の要所として昔から狙われてきた。現在はイスラエルとシリアによって「争奪戦」がおこなわれている。
「白い山々」という言葉が語源ともいわれるレバノン。この山々に囲まれた地は古くから交通の要衝として重要視されていました。

その証拠が、首都ベイルート近くにある碑文の数々。紀元前13世紀のエジプト王が刻ませたものから、19世紀のナポレオン3世まで。多くの国々の支配者たちが、この国を支配しようと進出してきました。

現在でも、その構図は続いています。2005年まで軍の駐留を続けていたシリアにとってレバノンは地中海への大事な出口であり、今でもヒズボラなどを使って影響力を保ちたい。一方、安全保障上シリアにレバノンを渡したくない、イスラム・アラブ化を阻止したいというのがレバノンの南隣、イスラエルというわけです。

このような構図のもと、小国レバノンは翻弄されてきました。

レバノンの複雑な宗派

レバノン
厳しい地形のレバノンは、さまざまな宗派が身を隠すには絶好の地だった。
レバノンを複雑にしているのは、あまりに多くて複雑な宗教・宗派の存在です。

山岳地帯の多いレバノンは、昔から何らかの理由で身を潜めるには絶好の場所でした。そのようなことから、いろいろな宗派の人々がやってきて、次第にレバノンは宗派のモザイク模様を作り出すことになります。

イスラム教徒:キリスト教徒=6:4ともいわれますが、何せ人口統計の不確かな国なので、正確なことはわかりません。

中東国家のなかではとりわけキリスト教徒が多いことが、レバノンの特徴です。なかでも一番多いのがマロン派という、ちょっと聞きなれない宗派のキリスト教徒です。

マロン派はもともと異端とされ迫害を受けレバノンにやってきた宗派です。しかし、キリスト教の聖地奪回戦争=十字軍戦争には積極的に協力し、18世紀にはローマ・カトリックの一派として認められます。

イスラム教シーア派が多いこともレバノンの特徴と言えるでしょう。建国当初は少数派であったシーア派は、いろいろな面で冷遇・虐げられてきたといわれます。シーア派武装組織ヒズボラは、このような状況から生まれてきたものです。

ドルーズ派も珍しい宗派です。輪廻思想など独特な教義を持つこの宗派は、やはり迫害の的でしたが、その結束力からくる影響力の大きさから、しばしば外国勢力に支援、というか利用されてきた歴史があります。

レバノン建国の経緯

レバノンは第1次世界大戦(1914~18年)終了後、敗戦国トルコからシリアとともにフランスの委任統治領となります。

フランスはキリスト教徒が多いレバノンをシリアから切り離して統治することにし、1926年、レバノン共和国はフランスの委任統治のもと誕生しました。フランスが第2次世界大戦で一時ドイツに占領されると、イギリスやアメリカの意向で完全独立が達成されます(1944年)。

※レバノンの完全独立については他の年(1941、43年)をあげる書籍もありますが、ここでは一番よく出てくる1944年としておきました。

しかし、多宗派国家・レバノンです。とりあえず各宗派がレバノン国民として団結していかなければ独立の維持すらままなりません。そこで、「国民協約」というものが締結されました。

「国民協約」では、レバノンは「アラブ国家」として「キリスト教徒とイスラム教徒の融合を図る」国家であるとされました。

これに基づき、大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派とされ、国会の議席配分も宗派によって決まっていました。このような政治システムより、パレスチナ人とユダヤ人が激しく抗争する隣国イスラエルと比べ、レバノンは平穏を保っていたのでした。

繁栄から不安定へ~内戦前夜

しかし、レバノンはやがて不安定さを増していきます。

その原因の1つは、経済の衰退にありました。独立後当初のレバノンは中東の要所として中継貿易を盛んに行い、また首都ベイルートは中東の金融センターとして活況を呈する状況で、経済は非常に良好でした。

しかし、遅れて他のアラブ諸国が近代化していき産業インフラ整備をしていくなかで、次第にレバノンの中継貿易要所としての地位は揺らいでいきました。

また、イスラエル・パレスチナをめぐって激しくなってくる中東情勢からくる不安は、外国の投資家にレバノンからの資産引揚げを招き、金融センターとしての機能を失いつつありました。

この経済の衰退は、国民の団結を失わせてしまいます。

2つめは、「国民協約」体制への不信でした。

「国民協約」後、レバノンの人口比率は大きく変化し、イスラム教徒の人口が増大していたといわれます。しかし、レバノンで公的な調査が行われることはなく、議会議席の配分など政治システムは、依然としてキリスト教徒、特にマロン派に有利に働いていました。

このことは、イスラム教徒、特に人口が急増したものの、政治・経済的に極端に冷遇されていると考えられていたシーア派の不満を招くことになります。

3つめは、レバノンを取り巻く国際環境です。

イスラエルとパレスチナをめぐる激しい戦いは、レバノンをいやおうなく巻き込みました。パレスチナ難民がレバノンに多数押し寄せ、PLO(パレスチナ解放機構)はやがてベイルートを本拠地としていくようになります。

PLOがレバノンに拠点を置くということは、「レバノンという国家のなかにもう1つのパレスチナ国家を作るようなもの」だったわけですが、アラブ諸国の圧力もあり、レバノンはこれを認めざるをえませんでした。

レバノンからイスラエル攻撃を続けるPLO、それに報復するイスラエルの軍事行動が始まり、レバノンの主権はしだいに脅かされていきました。

このような状況のもと起こったのが次ページにお話するレバノン内戦でした。

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