本部長が明言「結果責任は問わない」
「結果責任は問わない」木村強化本部長ははっきりと口にした。
不祥事を起こすなど人間的に問題があるような場合は別だが、卓球の成績だけで解任することはない、という。
「そうでしょう、これが一年中一緒にいて宮崎監督が強化をしているというのならともかく、基本は母体(所属)での練習になるわけですから」
ナショナルチームとしての活動は年間100日~120日、約3分の1である。一理ある、ように思えるかもしれない。しかし、そんなことははじめからわかっていることで、そのなかでいかに母体と連携をとり、上積みできるかが勝負なんじゃないだろうか。活動時間の短さを言い訳にするのであれば、男子のナショナルチームはいらないんじゃないだろうか。少なくとも、そのなかで少しでも効果を上げることに精力を傾けてきた女子のスタッフが聞いたら、怒り心頭に発するのではないかと思う。
人がよければ、手腕は二の次?
そもそも、監督選びの考え方が「逆」ではないだろうか。演技の下手くそな俳優だとか、腐ったようなネタを平気で握る寿司屋のオヤジとか、手術の技量が未熟で患者を殺しかねない外科医などを、「人はいいから」という理由で評価するのと同じではないだろうか。あいつ、卓球は下手だけど、人間的にはいいやつだから、世界選手権の代表に選んでみよう──選手選考だとしたら、そんなことがありうるだろうか。不法行為を犯しているなら論外だが、選手の課題を冷静に分析する眼や、モチベーションを上げさせる話術や、試合でのアドバイスなどがピカイチであれば、人間的に多少の欠陥を抱えていてもいいのではないだろうか。「監督」を選ぶのであるから、大事なのは「監督としての手腕」ではないのだろうか。
悲しいことに、私が最も「納得」したのが、木村強化本部長の次の説明だった。
「いろいろな可能性、いろいろな監督候補者をまないたの上にのせて検討した結果、監督としての能力だけではなく、その人の人生や社会環境なども含めて判断した」
少し説明を加えると、たとえば西村卓二監督の場合、社会的肩書は東京富士大学教授ということになる。当然、大学で果たすべき役割というものもあるわけだから、年間3分の1をナショナルチームの活動に振り向けるとなると、これは母体に相当の理解と配慮がなければできない。候補者本人の意向もあるだろう。かりに母体がOKを出して監督を引き受けたとしても、任期終了後の「出世」などに影響が出るかもしれない。クラブチームや地域スポーツにおける「プロのコーチ」が少ない、日本の「泣き所」でもある。