ボクシングコミッションが競技を“監視”する

裁くレフェリーの“現場判断”に頼るだけで、総合格闘技というゲームが成立して来たという背景には、競技者もファンもイベンター、マスコミもふくめて、このジャンルに関わる全ての人間が、MMAという競技を愛し、その価値観を共有した “同族”であるという事実が大きいのではないだろうか。

今でこそ、地上波放映されるイベントも増え、一般ファンの注目の的になった格闘技というジャンルではあるが、基本は 勃興期のジャンルにありがちな、“身内の共同幻想”が支える世界であったという、性質が大きいと思う。

奇しくも今回の事件に対して、桜庭自身事件後の雑誌インタビューで“ああいう反則をやるというのは、ゴルフのスコアを誤摩化すようなものだ”という趣旨の発言を行っている。“紳士のスポーツ” でのセコい違反ほど悲しく、また許しがたい物は無い。ゲーム自体を楽しもうとする精神のない者は、そもそも芝の上を歩くべきではないという想いは、桜庭のMMAに託した“性善説”的な想いを痛い程感じさせる。

その点、アメリカのMMA(あるいはボクシングも含めて)イベントは事情が違う。競技において起こりうるあらゆるシチュエーションを事前に想定し、小姑的に追求する“スポーツコミッション”という第三者が競技運営に介在してくるのである。元々ボクシングというメジャー格闘技が早い段階でビッグビジネスとなっているお土地柄なので、州が統括するスポーツコミッション組織が、州法で格闘技イベントに認可を出し、選手、セコンド、審判、プロモーターにそれぞれライセンスを発行し、厳しく統括するというフレームががっちり出来上がってしまっている。

そもそも、このシステムがされ始めたのは2000年前後。ちょうどUFCが元のプロモーターであるSEG(セマフォア・エンターテイメント・グループ)から、現在の運営会社Zuffaに経営を移譲する前後の話である。元々、グローブも嵌めずに生の拳で顔面を殴り合う光景を見せるという、PPVのテレビ残酷ショーとしてスタートしたUFCは、非合法の地下イベント同様の存在であり、決してスポーツではなかった。徐々に一般市民からの排斥を受け、頼みの綱であったテレビディールも失ったUFCは、ニュージャージー州のボクシングコミッションの統括のもと、よりスポーツ的世界観で生まれ変わる事を模索するようになったのである。

そのため大会には、スポーツコミッションから派遣されたジャッジが加わる。第三者で、中立的な視点をもつこうした人間を採用することで、MMAイベントの公正を維持しようという発想は、まさにボクシング由来のもの。もちろん通常ボクシングを中心に裁いている彼らは、総合格闘技への理解も薄く、スムースなイベント運営を考えるなら、決して歓迎できる存在ではない。だが、こと八百長など不正防止の“番人”としては、非常に有効な存在になると言えよう。

ヒスパニックやアジア圏の人間のように英語を理解しない住人も多く含む多民族国家アメリカでは、“ルール”の重さが違うのかもしれない。可能な限り不公正を排除し、平等な競争を維持するためには、おのずと“性悪説”が前提になってくるからだ。前提として悪意に依る違反者を想定し、厳罰を貫く。でなければ秩序が維持できず、また広く多様な価値観を持つ多数をまとめあげる事もできない。

「悪意を持って競技に参加する者が必ず存在するはず」

という徹底した意識のもとルールを定めたアメリカの姿勢は、決して間違った方向性ではない。その点、民族的差異の薄い“島国”文化の中で培われた我々の意識は、いささかお人好しに過ぎたのかもしれない。

その点、今回「Dynamite!!」主催者としてK-1/FEGが行った事態の分析と処分は、十分迅速であり、徹底した物でもあったと思う。“競技精神を逸脱した違反行為”という黒船の襲来に対して、MMA存亡の危機に正面から立ち向かった態度は非常に高く評価したい。

ただし、下された処分に関しては、若干の不満も残る。

当事者である秋山や審判陣だけでなく、主催者プロデューサーであるFEG谷川社長にも何らかの責任が問われるべきではなかったかと思う。少なくとも一般企業や役所の不祥事の場合、直接事件に関与していなくとも最高責任者は、その監督責任を問われるものだ。
 
まして視聴率獲得を最重点事項に起き、本来MMA競技に愛着をもたない多競技選手や芸能人を多く起用した大会を設定したのは彼なのだ。その空気感が“勝てば官軍”的な雰囲気を作り出したことは否めない。

秋山の悲しい暴走の遠因を招いたのは、僕は谷川氏のそうした浮ついたマッチメイクと大会運営精神にも大きな原因があると考えている。

秋山事件なぜストップできなかったか?(8)

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