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誰が格闘技を殺すのか:ゴン格休刊の真相(3)(3ページ目)

2006年初頭から相次いだ、格闘技界のスキャンダルの数々は、ブームの終焉を告げる序曲なのか? 徹底分析のシリーズ第一弾は、休刊に追い込まれた老舗雑誌を蝕む影を追求する

執筆者:井田 英登

最初の解任、そして奇跡の王座奪回


 話はさらに遡って、2002年の秋の話。
 熊久保英幸氏の後を継いで、2000年から『ゴング格闘技』編集長を務めていた宮地氏に最初の解任劇が起きている。そう、今回の休刊騒動以前にも、宮地氏は、『ゴン格』編集長の座を奪われた前歴があったのである。

 この時の解任理由は、『ゴング格闘技』の設立編集長でもあった舟木昭太郎氏の独立にあった。社内的には既に後進に道を譲る形で、相談役という席に就いていた舟木氏だったが、退社後は「Upper」という編集プロダクションを設立。この時『ゴング格闘技』の編集自体が「Upper」に移管されたために、宮地氏はあえなく編集長の任を解かれてしまったのである。

 この当時、宮地氏が率いた編集スタッフ、ライター、カメラマンの大半は一致団結して「Upper」の作る『ゴン格』へは参加しなかったのである。この第一期宮地『ゴン格』では編集部に机を置き、編集部員同様のエース格記者として多くのインタビューや座談会を仕切った茂田浩司氏、『格通』から移籍して一年たらずだったが既に雑誌の中核となりつつあった高島学氏、一旦は副編集長の座を捨てて他社に転職していながら、結局格闘技を捨てられず現場復帰した藁谷浩一氏など、優秀なライター/スタッフが揃って叛旗を翻したため、舟木氏の率いる新生『ゴン格』は経験の浅い新人記者やジャンル外のライターに頼らざるを得なくなり、かなりの期間低迷を余儀なくされ、部数も落ち込んだと聞く。

 一方、宮地氏はそのまま日本スポーツ出版に留まり、かつて自分が手がけた人気雑誌『Lady'sゴング』やの編集をサポートや、超マニアックな「格闘技選手名鑑」の編集を進めながら時を待つ事になる。その間、『宮地ゴン格』の主要ライター陣もネットや一般スポーツ誌での執筆、あるいはCSでの格闘技番組出演などに舞台を移しながら、他の格闘技専門雑誌へはほとんど寄稿せずに雌伏の時を過ごしていた。それだけ宮地氏の体制には、ある種の強い求心力が働いていたのかもしれない。

 奇跡の逆転劇が生じたのは、その約二年半後だった。
 2004年の7月に日本スポーツ出版社は、当時ネットで画像配信を行っていた「ジェブTV」のM&Aを受け、同社の社長である前田大作氏を社長に迎えたのである。社内体制が大幅に変わり、当時退社も考えていたという宮地氏に再度チャンスが巡ってくる。

 「Upper」に委託されていた『ゴン格』を再度社内編集に戻すというプランが持ち上がり、宮地氏が再び編集長に据えられることになったのである。2005年3月号を最後に『Upperゴン格』は終わり、第二次『宮地ゴン格』が立ち上がった。二年半の歳月を経て、宮地氏の元には再び同じスタッフが顔を揃えた。特にこの雌伏期にルサンチマンを大量に備蓄したであろう高島氏のエネルギー量は、見るからに高かった。既に高島氏は藁谷氏とのコンビで、2004年に『柔術王』と『ガチマガジン』(共にインフォレスト社)という極めてマニア濃度の高いムックを発刊して、注目を浴びていたが、あえてそれらの活動を封印して再び宮地氏とのコラボを選んでいる。この一点だけを見ても、彼らがこの“弔い合戦”に賭けていた熱意の高さが伺える。

 また、その二年半の無念の思いこそが、活字の級数圧縮を強いるほどの誌面改革をもたらし、第一次『宮地ゴン格』でも見られなかったようなコア雑誌化の流れを生み出す原動力になったのは間違えない。

 だが、彼らを歓喜させたこの本丸奪還劇の裏で、そのわずか一年後に訪れる再放逐の、大きな原因となる黒い影は、既に彼らの頭上でとぐろを巻き始めていたのだが…。

【PART4】に続く
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