実は「パーフェクト」でも何でも無い、追撃者人生
彼の競技人生を追って行くと、ホーストと言う選手は、常に自らを上回る大きな敵との戦いに敵愾心を燃やし、撃退されても、撃退されても何度も襲いかかって行く事で、自己証明を成し遂げて来たような部分がある事が判る。まず最初の敵はロブ・カーマンだった。1986年、まだキックを初めて5年足らず、まだAクラス入りしたばかりの21歳のホーストに、試合当日対戦相手が欠場した穴埋めとしてカーマン戦の話が持ち込まれた。当時、オランダ最高のテクニシャンであり、ヨーロッパ最強のキックボクサーとして恐れられた全盛期のカーマン相手に「当時彼は有名だったし、必ずいい経験になると思ったから引き受けた。予想通り負けたけど、KOされなかったことで自信がついた」と語るホースト。だが、実はこの試合 2分1Rの限り無くエキシビジョンに近いものだった。要するに、ほとんど歯が立たなかったのである。そして四年後、ようやくAクラス選手として、正統にカーマンに再挑戦した際もきっちりKOで敗れてしまっているのである。
その後、ヤン・ウェッセルやリック・ルーファスら、当時キック界のトップクラスに君臨する名選手と激戦を繰り返して、徐々にテクニシャンとしての名声を築いていったホーストだが、正直な所、この頃はまだ勝ったり負けたりの存在でしかなかったのだ。
頂点にはなかなか届かない追撃者の“怨念”こそが、体格に恵まれなかったホーストの最大の武器だったのかもしれない。 |
もし93年にオランダで一度だけ開催された中量級大会「K-2 GP」が順調に続いていて、向かう所敵無しの天下になっていたら、逆にホーストは中量級に踏みとどまって、今ほどの名声を築くこともなく、もっと早く引退していたかもしれない。
その意味で、1993年4月に開幕した第一回のK-1 GPは、彼のキャリアを大きく変えた大会であった。大会最軽量のホーストが、ピーター・アーツやモーリス・スミスといった当時ヘビー級のトップに君臨していたチャンピオン勢を連覇したのだから、判官びいきの日本のファンの声援は一気に彼に集中した。若いファンには、今で言うガオグライ・ゲーンノラシンやルスラン・カラエフたちの活躍を想像して欲しいと言っておこう。
しかし、ここでも彼の快進撃に立ちふさがる人間が居た。かつてヨーロッパ王座を賭けて闘った因縁の相手、ブランコ・シカティックである。かつての両者の対決は、ブレイク直後のシカティックの反則パンチで無効試合に終わっており、今度こそ決着をというホーストの意気込みも空しくKO負けを喫してしまう。頂点にはなかなか届かない、追撃者人生はまだまだ続くのである。
結局、ホーストが最初のK-1王座に就いたのは、それから五年後の1997年になってからの話。既に32歳になっていたホーストにとって、あまりに遅咲きの戴冠だったのである。
だが王座を一回取ったからといって、彼が頂点に立ったかと言えばさにあらず。K-1での王座獲得回数では、当時既に1994、95年と連覇を果たしたアーツが先行しており、98年の返り咲きも会わせて三覇を成し遂げてしまっている。アーツの後塵を拝したホーストが、ようやくその記録に並んだのが2000年の話。後年、ホーストが“フォータイムスチャンピオン”の呼称に異常に執着をみせるのも、いわばアーツに対する唯一のアドバンテージが、その回数にあるからかもしれない。
こうやってみてくると、ホーストのもう一つの異名「ミスター・パーフェクト」も、決してその人生においては適切なものではないことが判ってくる。パーフェクトどころか、挫折だらけ。敵わないライバルに嫉妬心を燃やして、何度も襲撃を繰り返す「追撃者精神」こそ、この孤独な男の戦いの源泉なのではないか?