“引き抜き”は、新興スポーツの宿命
どんな競技であれ、立ち上げ当初は“生え抜き”の選手など存在しない。新しいコンセプトを実現できる、それなりに“腕の立つベテラン”を助っ人として頼む事は、決して邪道であるとは思わない。K-1はその設立のコンセプトからして、“顔面攻撃のある空手”であり“肘打ちのないキック”であり、“キックのあるボクシングであり”そして、“投げや取っ組み合いのない喧嘩”でもあった。そんな架空のコンセプトを実現するために、空手出身のアンディ・フグ、佐竹雅昭、サム・グレコキック出身のピーター・アーツ、モーリス・スミス、アーネスト・ホースト(そしてUFCからプロシーンに名乗りを上げたパトリック・スミスなどは総合格闘家と呼んでもいいだろう)そんな混沌たる“異種格闘技コングロマリット”的オールスター選手団で構成されたのが、初期K-1の実体であった。当時大きく論争の的になったアンディ・フグやグレコらの極真選手の正道会館移籍などは、まさに最初の“引き抜き”と言うべき物であったが、彼らの存在無くしてK-1は成立し得なかったのである。
当然、ボクシングを来歴に持つ選手も豊富で、K-1第二世代に当たるジェロム・レ・バンナ、マイク・ベルナルドら豪腕パンチャーの出現で、K-1マットでの“パンチの脅威”が大きなテーマになった時代もある。さらに前述の吉野のように転向自体が事件を生んだケースを経て、時代はくだるが、天田ヒロミ、フランソワ・ボタらも戦線に加わっており、決してボクシングとK-1の縁は、薄かったとは言えないのである。
さて、その後、K-1がボクシング界との「第二次接近遭遇」を演じるのは、2000年前後。前K-1プロデューサーであった石井館長の打ち出す「タイソンVSベルナルド」や「ドン・キングを交えたアメリカ進出」といった、ボクシング界を巻き込んだバラ色のK-1世界戦略が、連日スポーツ紙を飾った時期の話である。
この頃、「タイソン挑戦者決定戦」位置づけられてマッチメイクされた、マイク・ベルナルドとジェロム・レ・バンナの壮絶なド突き合いは、客席の歓声でラウンド終了のゴングがかき消されるという前代未聞の“事件”まで引き起こす。この一戦は未だにK-1ベストマッチの一つに挙げたくなるほどの熱戦であった。
いま思えば、この時期は、「ボクシング」という“高嶺の花”に、“成り上がり”の青年期にあったK-1が、真剣に恋をした熱病のような日々であったような気がする。今でこそ「異種格闘交流」否定派の僕でも決して無視できない“本気の熱気”が、ベルナルドvsバンナ戦といった“あだ花”を生んだのだではないかと思えてならない。