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十年越しの対決=U という名の大河物語最終章へ 田村vs桜庭は「Uの墓標」か?(2)(2ページ目)

PRIDE29ではついに桜庭が、田村との対戦要求をぶちあげた。二年越しの、いやUインター時代からはほぼ十年越しのこのラブコールの秘める歴史と今後の展望。

執筆者:井田 英登


UイズムvsPRIDEという名の殲滅戦

そしてこの年の年末Uインターは奮闘あえなく倒産に至る。

田村の離脱によって取り残された形となった桜庭は、後継団体キングダムでの活躍を経て、PRIDE1での高田敗戦直後の1997年12月UFCの日本フランチャイズUFC-Jで、当時カーウソン・グレイシー門下の四天王と呼ばれた強豪マーカス・コナン・シウヴェイラと対戦。一度はコナンのパンチラッシュでレフェリーストップを宣告された判定を認めず、オクタゴンの中に居座って試合続行を勝ち取った末に勝利。「プロレスラーは本当は強いんです!」の名言を残して、一気に世界のMMAファンが注目する存在にのし上がっていったのだった。

こうして両者はUWFとMMAという共存不可能の道に別れて、それぞれキャリアを築いていくことになる。恐らく、共に道が再び交差した時が、お互いのイズムの最終決定戦となることなど、想像もしなかったにちがいない。

1996年後半からの一連の流れの中で、田村は日本中の格闘技ファンの共感を一身に背負ったといっても過言ではない。“Uイズム死守” という頑固な姿勢を貫いたことで、ポスト前田の一番手としてRINGSのメインイベンターにも上り詰めた。だが、その追い風となったファンの支持が、ほんの二年たらずでU全体への逆風に変わろうとは、田村自身想像もしなかった事態であろう。

そのきっかけは、なんといっても1997年10月PRIDE-1の結果だ。東京ドームのド真ん中で高田延彦がヒクソン・グレイシーに成す術無く敗れ去った瞬間、ファンはUWF幻想の脆さ、危うさを実感してしまったのである。当然、積み上げられた信頼は、崩れた時には強烈なしっぺ返しの洪水と化す。この日田村は高田陣営のバックステージで高田惨敗を見届け、号泣したというが、自分が命懸けで守ったUという象徴に対するファンの期待が、そこで一気に瓦解してしまったことを、彼は誰よりも強く実感していたのではないだろうか。
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