恐るべき新人、トーナメント・オブ・Jを制覇
思えば彼がデビューした1994年はK-1、UFC、そしてパンクラスがほぼ同時に旗揚げを行った“格闘技ビッグバン”の年。僕が取材対象として、高阪という選手に惹かれるのは、そんな歴史的背景もあったからかもしれない。正強高校(現奈良大付属高校)、専修大学、東レ柔道部と柔道エリートコースを歩んできていた高阪が、あえて柔道を捨て勃興期の総合格闘技を目指したのは、時代の空気に敏感な彼らしい選択であった。
現在PRIDEで活躍する吉田秀彦とは同世代。学生柔道時代からの知己として、同じ世界に身を投じてきた仲間として、いまや最良の練習仲間となっているが、その歩んできた道のりは大きく異なる。柔道一直線の道を歩んだ吉田はそのままオリンピックまで駆け上り、1992年にバルセロナで金メダルを掴んだ。
一方、高阪は東レ在籍時に膝を痛め、柔道家としての道を断念。会社側の慰留をなかば振り切る形で退社。93年9月にリングス前田道場に入門。年の離れた練習生に混じって、底辺からプロへの道をスタートさせている。
当然、長年の柔道生活で培った彼の地金はすばらしく、デビュー前から前田日明をして「今、柔道から来た面白いのを一人育ててね。三年もしたら誰も勝てなくなるよ」と語らせるだけのものがあった。翌年8月20日横浜文体の「リングス1994 in 横浜」で、プロデビュー。S.A.W.の弦巻伸洋を5R1分30秒KOで沈めている。組技出身選手とは思えぬ遮二無二の突進力を持った打撃がモノをいった体力勝負でベテランを圧倒。恐るべき新人出現の印象を残している。
このスーパールーキーは翌年、早速格闘技界の耳目を集める“事件”を巻き起こす。なんとデビュー一年目の95年10月、和術慧舟会主催のジャケット着用によるMMAスタイルのオープントーナメント
柔道四段の芳岡博之(当時フリー、現YMC代表柔術紫帯)を乱打戦の末に制したばかりか、大道塾のエース・山崎進をたった1分でヒールホールドに沈め、みるみる決勝戦に勝ちあがってしまったのだ。そして決勝ではエンセン井上の実兄として知られ、優勝候補最右翼であったイーゲン井上と、再延長までも連れ込む互角の戦いを繰り広げ、判定で優勝を掻っ攫ってしまったのである。
当時はようやくヴァーリトゥードという闘い方が知識として知られたばかりの時代であり、この大会もその一種の日本的回答として開催されたもの。オープンフィンガーグローブに上半身はジャケットという、きわめて実験的なスタイルが採用されたのも、柔道やサンボなど比較的VTに対応が可能な競技の選手を呼び込むための工夫でもあったのだろう。柔道出身の高阪もその意図にぴったりあてはまる選手だったわけだ。当時「裸のリングスではまだまだ自分なんか下っ端ですけど、柔道着を着ていいなら、自分に勝ち目があるだろうと思ったんです。メンバーを見て賞金はイタダキやと(笑)正直、チャンスやなと思いました」と、人間が出来た今ではまず口にしそうもないヤンチャなコメントを吐いていたものだ。
だが、この経験はさらに高阪の格闘技の道をさらに高みに、そして峻厳な場所へと押し上げていくことになる。