リリースにもあるとおり、昨年9月6日の初来日以来、全日本キックでの三戦に全てKO勝利。まず、最初に迎え撃ったのは、当時全日本不動のエースに君臨していた“野良犬”小林聡だった。
当初のマッチメイクの意図は明白で、2001年9月7日にラジャダムナンスタジアム現役王者テーパリットを破ったのに続いて、ルンピニースタジアム・Jライト級王者であるサムゴーをあてて、“タイ二大会場王者連覇”を果たさせようとしたわけだ。ただ小林はこれに先立つ2002年の3月ルンピニーライト級王者ナムサックノーイに、肘によるカットで流血敗退を喫している。一方、サムゴーもこのナムサックにはその直後の4月26日に判定負けで二階級制覇を逃している。“負けた者同士”で組みし易しと見てという訳ではないにしろ、あくまで小林勝利を期待してのブッキングであった。
しかし、日本初上陸となったサムゴーは階級を飛び越えるような豪快な左ミドルで小林を全く寄せ付けず、終盤3Rには強烈なヒザで顎を打ち抜くなど、業師ぶりも発揮、計4つダウンを奪う圧倒的な内容で小林を完封してみせた。この試合後、小林は何もできなかった」と完敗を認める発言を残している。また、返す刀で、翌年2月にはその小林のライバルであった金澤をも肘で“粉砕”。 「あれは化け物。鉄パイプみたいな蹴りだった。今の日本人じゃ誰も勝てない」と語る金澤の言葉は、言い訳というより、もう全面的な敗北宣言というべきであろう。
この強さに目をつけたのがK-1で、早速7月5日の「K-1 WORLD MAX 2003 ~世界一決定トーナメント~」に招聘を発表。階級こそ60キロ代のライト級ながら、70キロ代のウェルター級の選手が居並ぶこのトーナメントの目玉選手に据えたのだった。
しかし、この前後にタイでは、サムゴーが、長年兄と慕ったセンティアンノーイのジムを離れて独立、マネージメントを日本の企業が出資するイングラムジムに移していたのだった。この間、サムゴーとK-1の間には正式な文書による契約も交わされておらず、交渉があったとしても口約束レベルで留まっていたため、一気に事態は悪化。頭越しの契約進行を良しとしなかったイングラムジム代表鈴木氏が、6月20日の後楽園大会にプロモーション来日したサムゴーを伴って記者会見に臨み、「1回もオファーは受けていない」と発表。事実上のK-1不出場を表明している。
結局、サムゴーの出場は諦め、元ラジャダムナンスタジアム認定ジュニアミドル級王者のサゲッダーオ・ギャットプートンに代役出場を依頼し、K-1側は事なきを得た。だが、それもこれもサムゴーが“強すぎる”故に引き起こされた騒動だったといえるかもしれない。