■挫折と奪回の無限ループ■
「1度目の失敗は環境のせい。でもその時に何かを学ぶことが出来たはず。だから、二度目に失敗したら、それは自分のせい」
これは、アンディが深く慕った祖母フリーディの教えであるという。誰にも頼らず、己の力を研ぎ澄ますことによってのみ、人生を勝ち取ろうとしたアンディの基幹をなす哲学であった。だからこそ、アンディは徹底して自分を鍛え抜いたのである。
その想いの中心には常に「弱い自分を支えたい。もっと強くなりたい」という極めて人間的な願いがあった。それが、つかの間驕慢に走る事があっても、最終的に彼を空手道という一本道から踏み外さずに歩ませる結果となったのではないだろうか。何時いかなるときにも、自分しか頼るものの無い孤独と向きあいながら、自分の弱さを強く自覚し、そして脅える。あまりにも人間的な弱さではないか。傍目には露呈しているその弱さをダンディズムで押さえ込み、目一杯虚勢を張り、己の肉体を限界一杯攻め抜くことで、魂の暗黒面を越えていこうとしていた。それがアンディの風情に不思議な色気と、ストイシズムを与えていたように思う。
人は成功だけで人生を渡っていくことは、おおよそ不可能である。どんなに準備に準備を重ね、身構えても、不幸や不慮の自体は常に思いもかけぬ角度から襲い掛かってくる。それが、頂点を極めた人間であればあるほどダメージも大きい。苦労を重ね這い上がった結果だったからこそ、余計にそれを失えば、人はその喪失感を埋めるのに苦慮することになる。だが、アンディの人生はその繰り返しであった。事実、アンディの戦績はけっして輝かしいばかりのものではない。むしろ、挫折の連続であったと言うほうが正しい。
まず最初の挫折は極真時代に遡る。1991年の世界大会でフランシスコ・フィリォに不可解な敗北を喫し、アンディは極真離脱という大きなキャリアの転機を迎える。正道会館への移籍を果たした後、K-1の旗揚げを受けてグローブマッチに転じたアンディだが、その戦績は不思議な程の乱高下を繰り返す。
1993年11月「Andy's glove」と銘打たれたK-1マッチデビュー戦では村上竜二を三分足らずでKO。続いて翌年3月には、グローブマッチ三戦目にして第1回のK-1 GPを制したブランコ・シカティックと対戦。壮絶な撃ち合いを演じ、判定で下す大金星を射止めてみせた。グローブデビュー半年で、K-1シーンの主役に躍り出た形のアンディだったが、ここで急激な断崖絶壁がアンディを襲う。GP一回戦で対戦した“UFCファイター”パトリック・スミスに、まさかの19秒KO負けを喫してしまったのだ。
それは、あってはならない失態だった。
キックボクサーとは名ばかりの喧嘩屋であったパトリック・スミスは、当時格闘技界の話題の的であったUFC参戦選手という話題性だけで呼ばれた、いわば噛ませ犬的存在であった。片やK-1の花形であるアンディには、佐竹へのリベンジやGP初制覇という大きな期待が掛けられていた。ありえない敗北、ありえない屈辱。ヒーローに祭り上げられたアンディの名声は、そこで一気に地に堕ちた。
だが、アンディはこの後彼のリベンジ戦の舞台としてしつらえられた大会、その名も「K-1 REVENGE」のメインイベントで、劇的な逆転を演じる。自信満々に待ち受けたパトリック・スミスを容赦ないヒザ蹴りで56秒KO。幾ら無残な敗北を喫しても、心が折れないかぎり何度でも立ち上がることができる。この逆襲劇を期に、アンディは「不屈の鉄人」の称号を手にし、真の意味でK-1の競技的精神的中心軸に据えられることになっていく。
続く95年のGPで再びアンディに神の試練が投げ掛けられる。一回戦で南アフリカ出身の新鋭選手マイク・ベルナルドを迎え撃ったアンディは、後に「剛腕」と恐れられることになるベルナルドのパンチラッシュの初洗礼を浴びて、レフェリーストップを宣告されてしまったのであった。このときアンディは、アゴと肋骨を骨折、鼓膜、肺臓の損傷と満身創痍の状態であった。昨年の悪夢をなぞるような、二年連続の初戦敗退。9月、満を持して再びリベンジマッチに出撃したアンディだったが、ここでもベルナルドは殺人的な右フックでアンディを返り討ちに沈める。
この絶体絶命状態には、さすがのアンディも自らのキャリアの限界を思ったという。実際、このリベンジ失敗の後、三日間アンディは眠ることすらままならない精神状態に陥り、六本木の夜を徘徊していたらしい。さしもの鉄人もこの二連敗で選手生命を終えたか、と書き立てるマスコミも少なくなかった。まさか、この翌年アンディがGP決勝に勝ち進み、因縁のベルナルドを“フグ・トルネード(竜巻)”(下段後回し蹴り)で沈めて初優勝するとは、誰も想像しなかったであろう。