【第一回】UFCデビュー戦 怪人キモと遭遇
【第二回】究極の死闘 バス・ルッテン戦

“UFCサーカス”の一員として

高阪剛
ついさっきまで命をやり取りするような“果たし合い”を演じたオランダ人と日本人。激闘を終えて国籍も団体も超えた“UFCサーカス”の一員となる。
王座挑戦権こそ逃したものの、UFCでのルッテン戦での激闘は、確実に彼をUFCのレギュラーメンバーの地位に押し上げた。

まだカジノでの開催というフォーマットが固まっていなかった当時のUFCは、三ヶ月から半年に一度の不確実なスケジュールで、ボクシングコミッションが“お目こぼし”をしてくれる南部の州を中心に経巡っていた。スタッフもごくごく少数で、選手層も薄い。そんな運営側をほぼレギュラーと化していた少数の格闘ジャーナリスト集団が囲んで回るのである。その様子を当時流行していたF1にちなんで、僕は“UFCサーカス”と呼んでいた。

もちろんサーカスはサーカスでも、ボリショイサーカスや、木下サーカスのような華々しいものではない。当時のUFCはもっと格下の、田舎の小都市を巡るうらぶれたドサ回りのサーカス団だったのだと、僕は思っている。

一時期“喧嘩ショー”と華々しく伝えられたUFCブームもとっくに終焉して、格闘技専門誌ですらろくにページを割かない状況であった。WOWOWの放送もなければ、もちろんペイパービュウもない。ビデオの販売もストップして久しい。ある意味、総合格闘技は小さな最初の冬を迎えていたのかもしれない。

大会を主催するSEGは、元々ケーブルテレビのペイパービュウ用のスペシャル番組を制作する会社であり、社長のボブ・メロウィッツも格闘技畑に明るい人ではなかった。グレイシー兄弟の長男であり、ハリウッドのアクション俳優であったホリオン・グレイシーの企画に乗って“過激なTV喧嘩ショー”としてUFCを立ち上げたに過ぎない。(今で言う“リアリティショー”の一種といった感覚だったのだろう。)

だが、ビジネスパートナーだったはずのグレイシー一族は早々に撤退し、後に残されたのは“残酷ショー”排斥の外圧とショーの借金ばかり。しかし、新しいスポーツ誕生という熱気に酔う“サーカス”の一団を放り出す事もできず、回を追うたびにスケールダウンしていく状況と戦い続けてきたのであった。

現在はUFCのブッカーまで上り詰めたジョー・シルバも、当時はそんなサーカスを追っかける一ファンからデータ係兼雑用のアルバイトとしてSEG入りしたばかりだったし、現ズッファ社長のダナ・ホワイトだって、まだルーキーだったティト・オーティスの一マネージャーに過ぎなかった。取材側も、日本から来ているのは格闘技通信の名物記者で、第一回UFCから皆勤賞を誇る安西次長、UFCの公式カメラマン長尾廸氏、そして自費でたまにひょこんと現れるライターの高島学氏、そして僕ぐらいのものだった。

アメリカ側の記者も当時e-yadaというSEGが仕掛けていたネットラジオの解説者エディ・ゴールドマンか、アメリカ唯一の格闘技タブロイド紙「フルコンタクトファイター」のジョエル・ゴールドあたりがレギュラーでべったりと張り付いていた程度。

UFC自体、東部や西部の都市部での開催はままならず、南部の田舎のホッケー場や大学の体育館でひっそりと開催されるようになっていた。そんな時代だった。

ショーマストゴーオンでサーカスは進むが、明日は見えない。それでも、世界最高峰の格闘技の現場はここなのだという、確信と自負だけが、NHB排斥の嵐の中、サーカスにテントを畳ませない原動力となっていたように思う。そして、如何にお台所の事情が悪化していても、日が暮れ、テントに灯がともればサーカス団員は、観客の憧れのスターである事に違いはない。

そんな光景の中、高阪は着実に“UFCサーカス”の一員としての地位を固めていく。7月、初めて中西部アイオワに舞台を移したUFCは、“RETURN OF THE CHAMPIONS”と銘打って、モーリス・スミスとマルコ・ファスの復帰戦をメインにした、“プチ・オールドネーム”戦を開催。

高阪は半年ぶりのUFC登場で、ティム・レイシックをパウンドで戦闘不能に追い込み、TKO勝ち。若干相手が格落ちになっているのは、タイトルマッチなど一回大きな試合を落とした期待選手の格を、再度上げるための“調整試合”だったことを意味する。要するに、調整用の相手を準備してもらえるほどに高阪のポジションは、当時のUFCのなかで上位に置かれていたわけだ。(これは余談だが、この日TV放映にもならない予備戦の第一試合で、後に高阪とパンクラス王座を争うロン・ウォーターマンがUFC二戦目を戦っている。当時の格付けで言えば、高阪は大関クラス、ウォーターマンは序二段といったあたりかもしれない。)