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復活した伝説の格闘家、沈黙の十年の意味に迫る 「長田賢一、北斗の涯を越えて」(2ページ目)

昨年北斗旗に現役復帰した伝説の格闘家長田賢一。その沈黙の十年とライバル佐竹雅昭との生き様の対照を通して、プロとアマチュアの間に横たわる大いなるイズムの違いを考察する。

執筆者:井田 英登

かし、その主張に、当時の格闘技界では賛否が大きく分かれたのも事実である。

 80年代中盤から90年代初頭というのは、空手家が顔面殴打の技術を導入して、大きくスタイル変化を迎えようとしていた時代である。一方には、正道会館を中心にグローブを使用して、キックボクシング的なスタイルを導入すべきだという風潮があり、佐竹雅明、後川聡之、金泰泳らスター選手を擁した正道空手の主張は大きく格闘技雑誌の誌面を支配するようになっていた。「生産性のあるプロ格闘技化」を主張する石井館長の言動は刺激的であり、革新を求める時代の空気にぴったりとマッチしていたともいえるだろう。
 
 その正道グローブ空手思想の対象軸に置かれたのが、大道塾であった。<スーパーセーフ(面)か? グローブか?>武道空手の極北を争う思想戦の様相を呈した世論の高まりは、お互いが望むと望まざるとに関らず、同じ極真をルーツにもつ二つの空手団体を対立の構図で捕らえるようになっていく。

 うした流れの中、石井館長はヘビー級のエースとして全日本大会で三連覇を飾り頭角を現し始めていた佐竹雅明を、90年6月の全日本キック武道館興行に派遣。当時、UWFの前田日明との異種格闘技戦などで名前を売ったドン・中矢・ニールセンとのキックマッチに送りだした。まだグローブ技術もほとんど持たない若干24歳の佐竹ではあったが、本来反則であるバッティングをも含む、空手家らしい気迫に満ちた闘いで、佐竹はニールセンを二分足らずで撃破。格闘技界の寵児にのし上がったのであった。

 だがこの試合の最初のオファーは、実は佐竹にではなく、当初大道塾の選手に対して出されて居たという逸話が存在する。そう、最初にニールセンの対戦相手として目されていた選手こそ、'85、'86、'89の無差別級、'84'、87、'89体力別大会をそれぞれ三回制覇、大道塾の不動のエースとして君臨していた長田賢一、その人であった。
 
 長田といえば、まず往年の格闘技ファンの頭に浮かぶのは「ムエタイ挑戦」だろう。空手家として初めて1987年ムエタイの本拠であるタイのラジャダムナンスタジアムに登場、現役ウェルター級王者のラクチャートと対戦。最終的にはKO負けを喫したものの、序盤戦では逆にダウンを奪う健闘を見せた。当時立ち技最強と言われた“ムエタイ伝説”に臆することなく挑んだその姿勢は、今も高く評価されている。特に強烈な破壊力を誇った右ストレートは、北斗旗の試合中対戦相手のスーパーセーフを破壊するという“事件”まで引き起こした。当時の格闘技界において、かくも鮮烈な“伝説”を持つ長田という選手は、既に生きながらにしてある種神格化された存在となっていたのである。
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